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悪夢から3年…なぜ今、民事裁判なのか
1996年11月3日、大阪市西淀川区で、16歳の高1少年(当時)による傷害致死事件が起きました。被害者の武孝和君も同い年の16歳でした。因縁を付けられ逃げ回り、悪くもないのに何度も謝ったにもかかわらず、一方的に袋だたきに遭った結果でした。生き甲斐のすべてと言っていい愛息を突然奪われたにもかかわらず、武和光さん(53)、るり子さん(46)には、孝和君が、どのような状況で事件に巻き込まれ命を奪われたのかさえ知らされませんでした。「少年法」のためです。「事実と違う」と異議申し立てもできず、少年審判がいつあって、加害者にどんな処分が下りたのかも原則的に知らされません。被害者をカヤの外に置いた状況での「少年は更正」というものに異議を唱える形で、武さんたちは、97年12月「少年犯罪被害当事者の会」を結成、少年法の見直しを求める活動を行ってきました。そして、武さん夫妻は、民事訴追の期限が切れる直前の99年10月29日、訴状を提出、第1回公判が2月1日に行われました。なぜ、3年が経過してからの訴追することになったのか…、事件からの心情を含めて、母親である武るり子さんに心情を綴ってもらいました。
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◆武 るり子(たけ・るりこ) 1955年、鹿児島生まれ。大阪市西淀川区在住。2男1女の3人の子供を得るも、1996年11月、長男・孝和君を少年の暴力によって失う。97年、同じような境遇の家族と共に「少年犯罪被害当事者の会」を結成。同会代表。少年法の見直しを求める活動を行っている。 |
平成8年11月3日、文化祭の日に長男・孝和が突然命を奪われてから3年になります。私たち夫婦は、平成11年10月29日民事裁判のための訴状を大阪地方裁判所へ提出しました。
そのときの2人の思いをまとめた文章をマスコミの人たちに配りました。内容は次のようなものです。
謝罪もない加害者
事件から丸3年がたとうとしています。民事を起こすには、ギリギリの年数です。この3年間息子を殺された、寂しさ、悲しさ、悔しさ、腹立ちなど増えはしても、時が解決するものではありませんでした。家族五人で少しづつ築き上げてきた、幸せな家庭が、少年の理不尽な暴力により、一瞬のうちに壊されてしまいました。
夫婦でお互いを責め合ったり、自分を責めたりし、家庭が無茶苦茶になりました。それでも、残された家族で何とか頑張ろうとしましたが、元の幸せな家族には戻れません。それほど大切な息子だからです。
この3年間こんな思いを誰にぶつけることもなく我慢してきました。加害者側の誠意を待ちました。審判が終わるまでの形だけの代理人を通じての接触は3回ありましたが、気持ちのあるものではありませんでした。
審判の結果がでた後、2年10カ月の間まったく謝罪も接触もありません。何度も迎えた、お盆、命日さえもです。加害者本人はもちろんのこと、加害者の親にさえ、まだ一度も会ったこともありません。
加害者は、少年法で守られ罰も受けません。私たちの大切な息子を殺したことに対する責任もとうてい感じているとは思えません。私たち被害者側は、少年法という壁の前に事実さえもほとんどわからないし、調べるにも限りがあります。
加害者の通っていた高校の対応も、私たちの再々の問いかけにも誠意ある返事はなく物でも壊したかのように簡単な決まり切った内容で、個人のプライバシーに関することは答えられないというものでした。加害少年は、私たちの息子を殺す以前にも学校内で暴力事件を起こしていました。
暴力事件のとき、きっちりとした指導していれば、私たちの息子は命を奪われることもなく、親子五人で楽しい日々を送っていたはずです。私たちは納得がいかず、加害者が通っていた高校と府の教育委員会に対して、校内で起こした暴力事件に対し、どのような指導をしたのか質問状をだしました。私たちは誠意ある回答を待ちました。
ところが、学校も教育委員会も次のような回答でした。
本校では、生徒指導は、学校の教育活動全体を通じて行うことが大切であり、人間尊重理念に基づき、すべての教職員の共通理解のもとにその推進を行っているところです。また、「児童の権利に関する条約」の趣旨を踏まえ、教職員が生徒一人ひとりの人権に配慮しつつ、生徒の状況を的確に把握するように努めております。そして、生徒との好ましい人間関係を基盤とした内面にふれる指導、すなわち、心の教育を行っております。学校長(本来の回答は実名)
大阪府教育委員会といたしましては、生徒に生命の大切さや物事の善悪の区別など、人間としての基本的な倫理観や規範意識などをしっかりと身に付けさせるよう学校教育全体を通じて指導することが大切であると考えております。
大阪府教育委員会事務局 高校教育課長(本来の回答は実名)
校長や府教育委員会が言うように、生徒に生命の大切さや物事の善悪の区別など、きっちりと指導していれば、私たちの息子は、因縁を付けられることもなく、死んでいないのではないかと思います。人として、教育者として真摯な気持ちで受け止め、このような事件が二度と起きないようにしてほしいと思います。
私たちは、息子の通っていた高校にも責任があると思います。
なぜならば、教室内で他校の生徒に因縁を付けられ、暴力をふるわれそうになり、校門の前で加害少年が息子に因縁を付けているのを生活指導の先生が見ていて険悪な加害少年と話をしている、このとき、その先生が何らかの方法をとるべきだと思いました。
でも、事件の後に学校として独自に事件の概要を調べてくれたり、頻繁に足を運んでもらい、誠意ある態度や担任の先生の本当に悪かった、という気持ちを感じ、人として民事の相手から外さざるをえませんでした。
ただ、真実を知りたい…
私たちは、真実を知ることで、本人、親、学校それぞれ責任があることをはっきりさせたいと思いました。
息子の加害者によって奪われた命、奪われてしまった将来を考え、苦しみました。決して息子は死にたくなかったのです。何もいえずに死んでいった、息子の名誉を守るためには、真実を知ることから始まると思うのです。やっぱり、知るにはこの民事しかないのです。
でも民事を起こすにはかなりの費用がかかります。子供を殺され、親でさえ事実を知るにはお金を出し民事を起こさなければならいないことをおかしいと言い続けてきましたが、これにも3年以内という期限があるためここにきて決断しなければならなかったのです。
幸い私たちは、被害者の親の感情、考えそして費用をかけられないことなどをよく、くんでいただだける弁護士の先生方に巡り会えることができました。社会で騒がれることも無く、重大事件として扱われることも無く、命を命として扱ってもらえなかった息子の事件に、弁護団まで組んでいただけたことありがたいと思っています。先生方の力を借りて民事裁判を通して被害者側の現状を広く知ってもらいたいと思います。
平成11年10月29日 武 和光 武 るり子
大阪府立××高校校長殿
突然の手紙で失礼します。
私たちは、平成8年11月3日、大阪の此花区で起きた暴力事件で、殺された当事、大阪市立◯◯高校1年(16才)武 孝和の両親です。
加害少年は、当時、大阪府立××高校1年(16才)●● ●●という少年でした。この少年は、私たちの事件の前にも学校内で暴力事件を起こしていますが、学校として少年をどう認識して、どういう指導をしたのか、資料を含めて開示し、説明をしてほしいと思い、ここにお願い申し上げます。
なお10日以内に返事をお願いしたいと思います。H11.5.13 武 和光、るり子
◆同様の内容の手紙を大阪府教育委員会委員長宛にも送付
回答書
(前半は略=本文内で紹介した手紙文と全く同じ)先日、お手紙にてご依頼のありました加害生徒に関する資料については、同人のプライバシーに属することと考えられます。よって、大阪府公文書公開条例及び大阪府個人情報保護条例により、公開できないことになっておりますので、この度の資料については、お示しできないと考えております。ご了解くださいますようお願いいたします。
平成11年5月31日 大阪府立××高等学校長(本来の回答は実名)
◆大阪府教育委員会事務局高校教育課長からも同様の回答
以上の文章と私たちが学校や教育委員会へ出した手紙、それに対しての回答も含めマスコミに配りました。
今まで民事裁判の事が報道される時、どうしても請求金額だけがクローズアップされ、なぜ民事裁判を起こさなければならないのか、本当の意味がなかなか理解してもらえていないと感じていたからです。少しでも親の思いを知ってもらいたいと思いました。
話は前後しますが、息子との16年間、そして事件までのことを少し書きたいと思います。
私は、1955年鹿児島で2人姉妹の次女として生まれました。中学2年の時に母を亡くし、その直後父の仕事の関係で大阪に引っ越してきました。主人は、1948年同じ鹿児島で3人兄弟の長男として生まれました。中学を卒業し、広島にある少年自衛隊へ3年ほど行き、その後大阪で仕事をしていました。私たちは、大阪の西淀川区という所でで知り合い、76年私が21歳、主人が28歳の時結婚しました。
結婚して1年あまりで妊娠しましたが、10カ月おなかの中で育った子供は、 死産でした。私はそのときのショックで、なかなか次の子を産む気になれませんでした。ようやく産む決心をして、産まれてきたのが事件にあった、長男孝和でした。
「血友病」だった孝和くん
1980年10月の事です。待ちに待ってできた子供でした。心の底から『幸せだなー』と実感できた誕生でした。主人もうれしさのあまり、雨の中を泣きながら田舎のおばあちゃんに連絡したと聞いています。
その後、私たちは84年に長女が生まれ87年には次男が生まれ、3人の子供に恵まれました。長女が生まれた頃、独立したばかりの内装業の仕事で生活は、とても苦しく食べたいものも食べられない事もありましたが、3人の子供達の成長を楽しみに頑張りました。そのころは、二間のお風呂のない、長屋に住んでいました。
狭い部屋なので家具は最小限にしていました。子供のベットも手作りで、食台、棚などほとんど主人が作ったものでした。その中で一つ部屋に似合わない立派なものがありました。それは、ビデオセットでした。長男が1歳の時買ったものでした。今から18年前のことです。主人が息子の記録を残したいという、強い思いで買ったものです。当時定価50万円ぐらいしたものです。
買ったことにもう一つの理由がありました。息子が生後11カ月の頃血友病とわかったからでした。ふだんでも子煩悩な主人でしたから、より思いが強かったんだと思います。そのころ息子を、どこに連れていくときも、大きなバッテリーを肩に掛け、大きなビデオカメラを持って歩きました。
血友病という事がわかった時、ショックと不安とでいっぱいになり、なさけない私でしたが、いつもニコニコ活発に動き回る息子に励まされる事ばかりだったように思います。過保護に育てたくなかったので、ケガをしないように注意しながら、できるだけみんなと同じように行動させました。
幼稚園の年長の時、活発さを活かせるように、ボーイスカウトにも入れました。私は、そんな息子を、1年、1年、指おり数えながら、一生懸命大事に育てたのです。
反抗期もありました。ヤンチャもしました。ハラハラすることもありましたが、血友病が軽症だったこともあり、血液製剤になるべく頼らず、時間はかかりますが、湿布したり冷やしたりしてなおしました。
中学2年の時、ボーイスカウトに入っていた息子が、夏休みキャンプに参加した時の事です。キャンプの何日目かに、高いところから飛びおり、足首を捻挫したことがありました。そのキャンプにも家族で参加していたので、「車に乗ったら」とすすめても、みんなと帰ると言ってききませんでした。そして、周りの仲間に助けられながら、長い道のりを歩き、電車とバスで帰ってきたのを覚えています。帰ると、足がパンパンに腫れ、熱も出ていました。近くの整骨院でみてもらうと、ヒビが入っていたのです。そんな時さえ、血液製剤にたよらず、その代わり、普通の人の倍ぐらいの時間をかけても治そうとする心の強さをもっている息子でした。
血液製剤によるエイズ問題が出はじめ、年に一度の血液検査にその項目が加わり、結果を聞きに行くたびに祈るような思いもしました。
結果、陰性と聞くとほっとしたものです。親と子で病気とも向かい合いました。そこで、がまんすることを覚えていったように思います。そして、自分の命の大切さも、人の命の大切さも、よくわかっている息子でした。
そんな息子の命を突然に一方的な暴力で奪われたのです。相手は息子と同じ16才で、まったく面識のない、見ず知らずの少年達でした。
「自転車でこけた」の知らせ
今から3年前の、平成8年11月3日のことでした。
その日は、高校1年生だった息子の高校の文化祭でした。いつも朝寝坊の息子が、6時半にセットしていた「Xジャパン」の音楽で自分で起き、あわただしく着替えをし、朝ごはんも食べず、「行ってくる」と2階にある居間をのぞきこんで、声をかけて行ったのでした。
それまで、子供たちの行事には必ず参加していた私たちでしたから、主人は文化祭に行こうと思って準備をしていました。私は、親が来るのを恥ずかしがる年頃だったのと、高校生になり、ホッとしていたのとで、「少し距離をおいてみようよ」と言い、文化祭は見に行かなかったのです。
私たちは、下2人の子供と4人で買い物へ行き、主人は息子のためにMDのコンポを買いました。息子を驚かせるため、家に帰って、そのコンポの線をつないでいた午後3時半ごろのことでした。いつも仲良くしている同級生から電話があったのです。「自転車でこけて、鼻血を出している。そして言っていることがおかしいので迎えに来てほしい」と言うのです。私たちはあわてて家を出ました。
少しぐらいの事では電話してこないと思ったのと、息子は軽症ではあったけど、血がかたまりにくい血友病という病気をもっていたこともありました。車で10分くらいで現場近くの友人宅に迎えに行くと、息子はボーッとしてフラフラしていましたが、自分で歩き、私が手を貸そうとしても、「大丈夫や」と自分で車に乗るほどでした。
でも、「頭が痛い。気分が悪い」と言うので、とても不安で、とにかく、いつものかかりつけの病院へ急ぎました。病院に着くと、息子は車も自分で降り、私が「名前は? 生年月日は?」と聞いても、ちゃんと答えたのです。ところが、診察室に入ってから状態が悪くなり、CTスキャンをとるころには、もう話などできない状態でした。診察室に入った時、「今日、約束あるから行くで」と言うので、私が「何言ってんの」といつもの調子で交わしたのが、最後の言葉になってしまいました。それは、初めてできたガールフレンドとの約束の事ことでした
変わり果てた姿…病院での話
苦しそうにあばれる息子の体を主人がおさえ、やっとの事でCTをとりました。集中治療室に移されましたが、脳内の出血は、まだそれほどひどくないと言われ、今日は様子を見ましょうという事になりました。不安で不安でたまりませんでしたが、二人の子供が家で待っていたので、その夜は帰ることにしました。家に帰っても眠れないので、うつらうつらしていると、午前2時ごろ、電話がありました。いい知らせなわけがありません。主人が電話に出ると、「呼吸が止まったので手術をしなければなりません。すぐ来て下さい」との事でした。
私と主人は、急いで病院へ向かいました。明け方から手術がはじまり、医師からは「成功はしました」と告げられたものの、息子の様子は変わり果てていました。頭には包帯、たくさんの管や機械をつけられ、人工呼吸器もつけられていました。心臓だけが動いていて、さわっても、ピクリとも反応をしなくなっていたのです。
ほとんど脳死に近い状態でした。ほんのさっきまで元気だった息子のあまりの変わりように、私は、何が何かわからなくなり、ただぼう然としていたように思います。
私は、息子が仲の良かった中学時代の友達、そのお母さんたちに電話をし、「息子の容態が悪いので祈って」とお願いしました。みんなで祈れば、きっとそれがエネルギーとなって届くと信じていたからです。
「実は…殴られたんです」
そして、振り替え休日だった担任の先生にも連絡を取りました。旅行中だった先生が、旅行先から飛んできてくれました。その先生が、当日、一緒にいた友達に連絡してくれたのでした。事件の2日後、初めて息子の容態を聞いて、あまりの悪さにびっくりした高校の友達が、十数人で病院へ来ました。するとその友達は、「すみませんでした。自転車でこけたというのは嘘でした。本当は、他校の生徒に殴られたのです」とすまなそうに言うのです。
私は、主人と一緒に事情を聞きました。「なぜ、なぜ、嘘をついたの?」と子供たちに聞くと、「仕返しが怖かったから」と小さい声で答えました。泣いている子もいました。でも、早く本当のことを言っていてくれれば、何かが変わっていたかもしれない、と悔しく、怒りもこみあげました。でも、それ以上、子供たちを責める事はしませんでした。相手がプロレスラーみたいに大きく、年上だと思ったし、とても怖かったという事でした。
事件とわかり、訳がわからない状態の中で、何もできない私は、息子の命が助かる事だけ祈るしかなかったのです。
主人は、そんな中、私に負担をかけないように、警察との対応をすべてしてくれていました。まず学校の先生と一緒に、警察に被害届をだしに行きました。そのとき、夕方5時を過ぎていたので、今日出すのも、明日出すのも、同じだと警察は言っていたと言うのです。そのときすでに息子は、人工呼吸器をつけ、さわっても何の反応もない、ほとんど脳死に近い状態だったので、命が関わっている事件なのにすぐに動いてくれないのかと、怒りがこみ上げてきました。
でもその怒りを警察にぶつけることは、できませんでした。被害者側は弱い立場にあります。ちゃんと調べてもらわないといけないし、悪い心証を与えては、いけないと思うからです。
共に闘ってくれた初めての「彼女」
そのころ病院の先生の話は、いつも最悪な事しかなく、とても残酷で、まっ暗なトンネルの中を、遠くにある小さな光に向かって歩いているような毎日でした。
ガールフレンドとの約束をとても気にしていたので、家族しか入れない集中治療室に、彼女も入れるように看護婦さんにお願いしました。その彼女と主人と、毎日、息子の体をなでながら、呼びかけ続けました。彼女は、何の反応もないばかりか、少しずつ変わっていく息子の容貌にもいやがらず、いつも変わらず、「大丈夫。がんばろうね」と息子に声かけてくれました。時には、器械の音や数字の変化にビクビクしている私にも、「大丈夫」と励ましてくれました。今も私は、彼女に一生かかってもお返しできないほど大きな恩を感じています。息子が最後にそんな彼女と心を一つにして生きる事ができた事が、親として唯一のなぐさめです。
入院して12日後の11月15日、昼ごろから、息子は危篤状態になりました。主人はたまらなくなり、「早く捕まえてくれ」と警察に電話しました。加害少年を捕まえるのは、2、3日先と聞いていたからです。夕方になって、少年の身柄が拘束されたことを警察から知らされました。
事件とわかったときから、新聞社に連絡をしたかった主人は、すぐに各社にファクスを流すことを私に言いました。加害者が捕まるまで、捜査の邪魔になるからしないように、警察に止められていたのです。私は、言われるように書きました。
〈11月15日ファックス内容〉
11月3日午後3時半頃、◯◯工業高校に通っている、1年B組の武 孝和という生徒がいんねんをつけられ、あやまっているにもかかわらず。本人は、けんかをさけようとして逃げても追いかけられ、なぐるけるの暴力をふるわれ意識不明の重体で現在危篤状態です。今後このような事件がないように、マスコミ各社の御協力をお願いします。なお相手は、現在此花警察署に逮捕されたようです。国立大阪病院に入院しているので、現在私たちは家をあけています。
と住所と名前を入れて流しました。
主人が事件とわかって、すぐファックスを流したかった理由の一つに、こんなことがありました。
高校生の息子ですから、お医者さん看護婦さんたちが見たとき、けんかでもしたんだろうと思われたくなかったのです。バカなことをしてと思って息子に関わるのと、かわいそうな事をされてと思いながら関わるのでは、汗の拭きかた、体の拭きかた接し方が違うんではないか、もっと親身になってくれるのではないか、と思ったと言っていました。
犯人が捕まったその夜、それを待っていたかのように、午後11時43分、息子は意識を取りもどさないまま、言いたい事も言えず、息を引きとりました。死因は、左後頭部の内出血でした。どうにか息子の命を引き戻そうと大声で叫び続けましたが、届きませんでした。
警察の言葉が悲しみに追い打ち
私が息子にすがりつき、なでていると、「さわらないで下さい」と看護婦さんに言われました。「なぜ?」と聞くと、司法解剖をするので、との事でした。
まだぬくもりが残っている息子をさわって、遺体のぬくもりを感じていたいと思っても、してはいけないのです。私の涙は止まりませんでした。
そんな時、警察の人が病院に来ました。混乱状態にある主人に、警察の人は、こう言ったそうです。「日本は法治国家であり、個人の恨みをはらすとか、仇討ちをする事は許されない。そして、少年法という法律がある。加害少年にも人権があり、立ち直る可能性と将来がある」と。この言葉の中に、殺された息子の事は、まったく入っていませんでした。これが、たった今、大事な息子を亡くし、気も狂わんばかりの親に最初に言う言葉でしょうか。命も人権も将来も、息子に今さっきまであったのに……。私たちは、腹が立ってつらくても、ここでも強く言い返すことはできませんでした。
そんな思いを自分の胸の奥底へ押し込むしかなかったのです。少年法というものをあまり知らない私たちは、いつかは事実を教えてもらえると思い、待ちました。けれど、相手が少年という事だけで、どこの誰が、なぜこんな事をしたのか、いったい何があったのか、自分の息子の事なのに、一切教えてもらえませんでした。その後、警察から連絡があり、「加害少年を家庭裁判所に送りました。そこの調査官を窓口にして聞いたら、いろいろくわしく教えてくれるでしょう」という事でした。
家庭裁判所も教えてくれない
それなら家庭裁判所は教えてくれるのだな、とすぐ家庭裁判所へ電話をして聞くと、やっぱり教えられないという返事です。ここは、加害少年の将来を考える所で、事実関係をどうのこうのする所ではない、親御さんの心情を聞きたい訳ではない、というのです。それは、少年法があるからです。
そうなると、自分たちで調べるしかありません。私たちは、息子の事件に関する情報を求めるチラシを1万2千枚作り、新聞に折り込んだりもしました。息子の高校、友達の情報などで、私たちが事件の流れを把握できたのは、2カ月ぐらいたったころでした。
わかった内容はこうでした。文化祭のあと片づけをしている息子の教室に、他校生2人が入ってきて、部屋にいた何人かに「誰誰知らんか?」と聞いたそうです。息子は、よく聞こえなかったのか、「えっ?」と言ったそうです。すると、返事が悪いと怒りだし、襟首をつかみ、なぐるまねをしたといいます。もう一人は、いすを振り上げ、なぐろうとしたそうです。そして、廊下で待っていたもう一人に、「もうええやん、やばい、帰ろう」と言われ、その場をいったん出て行ったそうです。でもその後、一時間近く、6人で待ち伏せしていたのです。文化祭が終わり、帰ろうと門を出た息子に近づき、いらだった感じで「ちょーこい」と命令したそうです。
無抵抗の袋叩きだった…
相手は身長180センチ以上で、がっしりしていて、とても威圧感があったといいます。何か異常を感じた生活指導の先生が近づいてきて、相手に「何かあったのならかんにんしたって下さい」と言いました。それで、相手が仲間の所に戻ったすきに、「今のうちに早く帰れ」とその先生は言ったそうです。息子は、友達の自転車に2人乗りをして逃げました。でも、1キロぐらい逃げた所で、追いかけてきた相手の少年に捕まってしまいました。その場所は、逃げようと言っていた友達の家の数メートル手前の所でした。
教室でもあやまり、門でもあやまり、そして、捕まった所でもあやまったと聞いています。でも、相手はそれでもおさまらず、顔面を2発なぐり、左足で頭に回しげりをかけました。その相手は、空手を習ってたこともあるそうです。そばにいた友達が、「やめたって下さい」と言ったそうですが、もう一人の相手が、「お前とめるんか」とすごんだため、それ以上、何も言えなかったそうです。そして、倒れている息子の横で、パンチや回しげりのデモンストレーションをし、「K―1に行けるとちゃうか」と言ったそうです。そしてタバコを吸い、頭や足に灰を落とし、投げつけて立ち去ったといいます。
こんな相手にかかわりたくないため、悪くもないのに何度もあやまり、2、3発なぐられるのをじっとがまんした息子は、どんなにくやしかっただろう。相手はなぜここまでできたのでしょう。こんな暴力は、決して本当の強さでもカッコよさでもないのに。その当時、私たちは、自分たちで調べてわかった以上の事は、わかりませんでした。
加害少年は、一人の人間の命、夢や希望までうばいとりました。そして家族の将来も狂わしました。高校の先生の連絡によると、家庭裁判所の審判の結果は、(何の罰もない)少年院送致という事でした。そして実際は、ほとんどが1年少しで社会にもどれると聞いています。私は、期間がどうのこうのと言っているのではありません。加害少年が「本当に大変なことをした、本当に悪かった」と思っているとは感じられないので、許せないのです。
それで更生したと言えるのでしょうか。相手の親も学校も、審判の決定が出るまで、形だけの接触は3回ほどありましたが、あとは知らん顔です。自分たちの事だけしか考えていません。いまだ謝罪もありません。実際に会った事もありません。
では、命をうばいとった責任は、いったい誰がとるのでしょう。息子の命は、物でもなく、紙くずでもないのです。16歳で死にたくなかったのですから。人の尊さは、年齢や職業できまるものではありません。子供、大人、親、先生、警察、裁判官、弁護士、といった年齢や職業をはなれて、まず裸になった一人の人として、どうしたらいいか、考え直してほしいと思います。そうしたら、少しは、被害者も救われると思うのです。
母として父として…自責の念
息子を突然失い、私たち家族は何もかもすべてが変わりました。息子を救えなかった親として、時にはお互いを責め合う事になりました。主人はいつも、「ケンカになりそうになったらまず謝れ。それでダメなら逃げろ」と言っていました。それでもダメならどうするん、と聞く息子に、「2、3発なぐられても死にはせん」と教えてきたのでした。息子はそのとおり、言われてきた事を守って死んでいきました。それでも親は、「よく守った」とほめてやらなければいけないのでしょうか。
主人は、そう教えてきた自分を責めていました。私は、自分から産まれているのだから、主人と私とで助けられると思いつづけ、願えば絶対に息子を助けられると信じていたのでした。でも、その願いは届きませんでした。
母親として、何もできず、何もしてあげれなかった苦しさで、「私が育てたからでは」「私が教えてきた事はまちがっていたのでは」と思うようになったのです。
誕生日、入学、卒業…私の今までの喜びは、すべて悲しみに変わりました。小さい事で言えば、4人で食事をする事も悲しみです。5人での食事があたりまえだったので、下の子が「おいしいね」と言っても、苦しくなるのです。そうすると、2人の子供も、何も言えなくなるのです。
何もかもが息子と重なり、耐えられない苦しさのあまり、主人が食台をひっくり返した事も何回かあります。電化製品も何個か壊しました。壁や戸にもキズができました。主人との口論も絶えませんでした。2人の子供の事もしてやらなければ、とわかっていても、自分の事だけで精いっぱいの私は、毎日、子供たちの前で泣いているばかりでした。2カ月ぐらいは家事もほとんどできない状態でした。
あまりに泣いてばかりいる私に、当時中学1年生だった娘が言いました。「お母ちゃんだけじゃないんや。私だってつらいんや。本当は学校だって行きたくなかったんや」と。私は、なさけない母親でした。自分だけ、現実の怖さに逃げる事ばかり考えていましたから。娘も、当時小学3年生の息子も、苦しんでいたのでした。
息子を失っただけでなく、家族まで崩壊しそうになりました。でも、そんな状態の家族なのに、いつもと変わらずに来てくれる人たちがいました。ウチでごはんを作ったり、時には鍋ごとおかずを持ってきてくれたり、片づけをしてくれたり、夜になると二人の子供たちは、毎日、亡くなった息子の友達と、にぎやかに遊んでいました。いつも誰かが来てくれていました。そんな中で、私はグチをこぼせたのです。何ヵ月もかかりましたが、少しずつ、日常生活のリズムをとりもどせたのは、そんな周りの人たちのあたたかさと、毎日来ていた孝和の友達、そして2人の子供達のおかげだと思っています。私も主人も、あまりの苦しさに押しつぶされ、お互いのことを思いやる気持ちをなくしてしまっていたからです。
親が先に子供を見送るという事、それもこんな理不尽な事で子供を失うという事は、親にとって一生背負う苦しみです。今もその苦しみは変わりません。だけど、私にもうひとつ、心のより所ができました。同じように少年犯罪で子供を殺された人たちと、それを支えてくれる人たちです。
同じ苦しみ…少年犯罪被害当事者の会のこと
私たちは、一番の「被害者」である子供の事を大切に思う親たちを「被害当事者」と呼ぶ事にして、平成9年12月に「少年犯罪被害当事者の会」をスタートさせたのです。会のできるまでの事、それからの活動などについて、少し書きたいと思います。
私たちは、事件後2カ月目のころ、精神も体も限界の中で必死になってしている事がありました。過去12年前からの少年犯罪に関する記事を集める一方で、自分たちの事件の新聞記事や、自分たちが家庭裁判所へ出した書類などをコピーして、新聞社、雑誌社、テレビ局などへファックスで流す事でした。こんな理不尽な事があっていいのか? こんな事が通るのだったら、これからもっともっと少年事件は増えると訴えたかったのです。
でも、どこにも相手にされませんでした。「大変ですね」とか「気持ちはよく分かります」とか言われるのですが、「でも法律にかかわる事だから」と、そっけない返事でした。大事だった息子の命が、ここでも軽く扱われたように感じて、とてもつらかったです。
そのころ私は、同じ思いをしているお母さんと話をしたいと思っていました。あまりの苦しさの中で、何もわからなくなっていたからです。そこで、記事を書いた新聞記者の人に連絡をとり、そんな私の思いを話しました。ところが、しばらくして連絡があり、「何件か同じ立場の親に連絡を取ってみたけど、その事にはもう触れたくないと言っている」とか、「夫婦が気まずくなっていて家庭の状態が悪いとかでダメだった」との事でした。知人が探してくれた事件にあった両親に会った時も同じでした。「少年事件に関するものは一切見ないようにしている」とのことでした。
私たちの家庭もひどい状態だったので、もうダメになるのではというこわさが、それまで以上に増しました。でもその反面、絶対にそうなってはいけないという思いを持ち始めていたのもこのころだったような気がします。それからも、記事の中から、少年犯罪にきびしいコメントを出している先生や、犯罪被害者学の先生などに、すがるような思いで連絡を取りました。
事件後3カ月のころ、その犯罪被害者学の先生と会う事ができました。私たちは、それまで誰にも真剣に聞いてもらえなかった事もあり、3時間近く必死で話をしました。その時の先生の話の中で、少年事件の場合、民事訴訟にする人は2割位と非常に少ない事を知りました。法律の事などまったくわからない私は、その時強く思ったことがありました。少年法があるために、今の審判では、被害者の親でさえ相手の事や事件の真相を知ることができません。そこで事実を知ろうとして民事に訴えると、多額の費用がかかる上に、周りの人たちの「子供の命を金にかえるのか」という心ない中傷などで精神的な負担も大きくて民事にできません。それでは、子供の突然いなくなった現実だけが目の前にあり、何一つ納得できないまま苦しみを心の奥底に押し込み、生きていかなければならない。そんな人たちがたくさんいると思いました。
何も悪い事をしていない被害者側にはあまりにも理不尽すぎるし、誤ってると強く思ったのです。でも、そういう事を言える場所はなかなかありませんでした。それから4カ月後、神戸の事件が起きるまでは……。
ところが、神戸の事件後は、少年事件や少年法の事が毎日のように話題になりました。そして、それまでに配っていた私たちの資料が回り回ってフリーライターの人の目にとまり、初めて雑誌の記事になったのは、息子の事件から10カ月目のころでした。その記事をきっかけに、沖縄・石垣の田本さんと富永さんを知ったのです。
9人で2時間以上リンチ
田本さんは、中学2年生だった息子さんを、中学2年生6人、1年生3人の少年グループによる暴行で6年前に殺されたお父さんでした。9人で2時間以上も連れ回し、もうここまでしたら死ぬと誰でも思える暴行です。途中では、手が痛いからとジャンケンで順番を決め、殴っているのです。同じように血が通った人間とは思えません。それでも少年院などの施設に半年から1年という審判結果だったそうです。グループの中の14歳未満の少年は、その審判すらないという事でした。こんなことで、自分のした事の重大さが理解できるのでしょうか。ちなみに、この「集団リンチ殺人」ですら「傷害致死事件」として扱われるのです。「殺意」の認定ができないだからだそうです。
このグループの少年たちが反省などなく、罪の重大さがまったくわかっていないという事は、その4年後に起きた富永さんの息子さんの事件からはっきりします。田本さんの事件にかかわったグループの中で、たまたま田本さんの事件の日にいなかった少年が、富永さんの事件のときに暴行した少年の一人になっているのです。
富永さんの事件も、とてもひどいやり方です。無抵抗な富永君に一時間ほどかけて暴行を加える。小さい子供でも、ここまでしたら死ぬとわかる内容です。そして、この事件も「傷害致死事件」扱いです。田本さんの時の加害者たちが本当に更生していたのなら、同じグループの中から又同じような集団暴行の事件は起きないはずです。本来、一度だって起きてはいけない事件なのですから。
その後、やはり少年事件で息子さんを殺された岡山の松田さんの事を知りました。通りがかりの18歳の少年3人に因縁をつけられ、殴る、蹴る、踏みつけたり、蹴り上げたり暴行され、命まで奪われたのでした。お母さんは宝物のように息子さんを育ててきたと話しました。そして「20歳になった息子さんとお酒を飲みかわすのを楽しみにしていた」とお父さんから聞きました。涙が出ました。
「こんな事で知り合いたくなかったね」
私たち4家族が知り合った時、一度みんなで会って話をしようという事になりました。それが、会のできた平成9年の12月21日です。
電話で話はしていたものの、会うのは初めてです。でも、昔から知っているかのように感じ合い、話はつきませんでした。悲しい事に、「こんな事で知り合いたくなかったね」がみんなの共通した言葉でした。それから、週刊誌、新聞、テレビなどで少しずつ会の事が取り上げられるようになって、会の人が一人増え、二人増え、現在の11家族になったのです。会ができて2カ月目、石垣の富永さんのお母さんから電話がありました。「今日の国会中継で、少年事件や少年法改正の事を熱く答弁していた議員の人がいたよ。その人に私たちの思いを手紙で出そうよ。そして法務大臣に直接会いたい事も伝えよう」。この電話がきっかけで会の3人のお母さんたちが手紙を出し、私たちの気持ちが伝わり、本当に法務大臣に会える事になりました。会ができて4カ月目、平成10年4月28日の事でした。
石垣、広島、岡山、大阪、長野、神奈川と、遠くから8家族が集まりました。マスコミの人たちもたくさん集まってくれました。私たちは、親の思いを一生懸命伝えました。大臣は熱心に聞いて下さいました。私は、わかってもらえたと信じています。それから、平成10年7月に大阪弁護士会、8月には日本弁護士会、10月には自民党の小委員会、平成11年4月には、公明党の法務部会と今までカヤの外に置かれていた被害者側の話を、やっと公の場所で聞いてもらえるようになってきました。
最近では、犯罪被害者の事が、よく取り上げられるようになり、警察・弁護士会など、いろいろなところで支援が始まっています。でも現状は、まだまだです。私たち少年犯罪の場合は、特に難しいようです。警察・検察からの被害者への通知制度でさえ、ちゃんと運用されていないのが現状です。
最近の少年事件の被害者家族の人から連絡をもらい、話をしていてわかるのです。まだまだ問題はたくさんあります。それが本当に分かってもらえるまで、もっと時間がかかると思います。でも、私たちは言い続けるしかないと思います。そうすれば、同じ人間同士、いつかはきっと通じるはずです。
私たちの会は、子供を大事に思う親の思いだけで集まった会です。何か団体の支援があったりしてできた会ではありません。殺された子供たちの叫びが、親たちの叫びと結びつけてくれたのだと思います。
一人一人の力は本当に弱く、会としてできる事も多くはありません。でも、どんなりっぱな団体より、思いだけは負けません。今私にできる事は、一人でも多くの人たちに被害当事者の本当の現状を知ってもらう事しかありません。今までも、被害当事者が個々で訴えていたのに、相手が少年だから押しつぶされ、死んだものはしかたがないじゃないかと扱われてきたのです。そうしてきた事が、これだけの少年犯罪の低年齢化、増加につながっているのですから。
反省の場を奪っている現行少年法
一人の命が人の手によって奪われたという事、命を奪われた息子たちは、死にたくなかったという事、夢も希望もたくさんあったという事、その命を突然理不尽に奪ったこと―そこを原点に考えてほしいのです。私たちは、何も厳罰主義を求めているのではありません。ただ、責任の所在をはっきりさせ、被害当事者も入れて事実関係をはっきりさせることが一番大事だと思うのです。そこから加害者は、はじめて自分のした事の重大さがわかり、本当に悪い事をしたとわかるのです。でも現在は、加害少年の反省の場を奪っているように思えてならないのです。
集団暴行事件が多く、現在私たちの会11家族に対し、加害者は65人います。少年院を出たかどうかも知らされないのではっきりは確認できませんが、わかっているだけでも半数以上は社会復帰しています。でも、少年院から出てきて、本当に悪かったと自分から線香をあげに来る子を一人も聞いていません。
本当にこれが一部の学者や弁護士の言う「更生」なのでしょうか。人として絶対にそうではないはずです。被害者をもう出さないためにも、私たちのような親の苦しみを受けないためにも。今、みんなで考えてほしいと思います。
息子を失って3年が経ちました。当時、胸の中がえぐられるようにあいた穴は、まだうまっていません。今も息子を救えなかったという苦しさ、もう息子はもどらないというさびしさで、時々、押しつぶされそうになる事があります。夫婦でもお互いに気持ちに余裕がなくなり、ぎくしゃくする事もまだまだあります。でも、主人はにがてなパソコンを始め、インターネットでホームページまで作れる程になりました。子供の命がかかっていると言いながら、目を細め、いろいろ苦労しながらキーボードを打ち続けています。息子がその時まで生きていたんだと残したいからです。必死さがよくわかります。
私個人は弱く、なさけないものですから、すぐ自分の気持ちを甘やかし、もう何もしないでおこうとか、どこかに逃げてしまいたいとか、自分だけ楽になりたいと思う事があります。主人が内装業をしているものですから、今月の職人さんの給料を払い終わったらもう区切りにしようと思います。そして次は、高校1年生の娘のテストがすんだら区切りにしようと思います。でもその次には小学6年生の息子の遠足があり、お弁当を作らなければいけなくなります。こうして、次々にする事に追われ、やっぱりがんばろうと思い直すのです。
今私は、話ができる場所がある事、会の人たちがいる事、それをささえてくれる人たちがいる事を、本当に良かったと実感しています。これからも、複雑な気持ちとたたかいながら、私にしか出来ない事を少しずつがんばっていこうと思っています。いつも息子の事にかかわっていたいと思う私にとっては、そうする事によって初めて前を見ながら生きていけると思うからです。それが息子が16年間生きていた証でもあるからです。
忘れないで、死にたくなかった子供達の事を
被害者の親や兄弟は、こんな苦しみを背負いながら、日々生きているという事を知ってもらいたいと思います。ニュースが次々と新たな事件を伝える中で、前に起きた事件はすっかり忘れられていきます。でも、忘れられてしまった被害当事者たちの苦しみは、決して消えているわけではありません。どうかこのことを忘れないで下さい。
殺されたくなかった、死にたくなかった子供達の事を! 誰の命も尊いんだという事を!(武 るり子)
◆少年犯罪被害当事者の会への問い合わせ、同会発行の冊子「親子の絆」をご希望の方は次まで。〒555-0024 大阪市西淀川区野里2-16-24 「少年犯罪被害当事者の会」武るり子 電話とFAX06-6478-1488 [Email] takatora@ma4.justnet.ne.jp 同会のホームページ http://www4.justnet.ne.jp/~takatora/welcome.htm 「ヤフー」等で「少年犯罪」と検索してもOKです。
◆少年犯罪被害当事者の会関連出版物(取材を受けた本)
「少年リンチ殺人―ムカつくから、やっただけ。―」日垣隆著(講談社1600円)
「少年にわが子を殺された親たち」黒沼克史著(草思社1600円)
(写真説明)
夏休み、兵庫県竹野へ家族5人そろって海水浴へ行った時のひとこま。中央、カニ人形の後ろでおどけているのが孝和くん(当時、小学生)
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