|
少々私的な部分もある追悼文になりますが、おつきあい下さい。ある先輩を偲んで書かせていただきます。
5年間、阪神大震災と闘った金親寿男(かねおや・ひさお)さんが亡くなった。私、大西が働く会社(大阪日刊スポーツ新聞社)の先輩である。99年12月12日、45歳の若さ、悪性リンパ腫だった。94年末、ダウン症で内臓にも障害を抱えていたという長女りさちゃんを、2歳2カ月で亡くした。2年2カ月という短い期間のうち180日を病院で過ごしての死だった。年が明けた1月17日、父・不二男さん(享年86)を震災で失った。
金親さんの家は「全半壊率91%」という芦屋市津知町(芦屋川の西側の神戸市東灘区と隣り合う地域、国道2号線の南側)にある。津知町の実家は全壊、お父さんはここで犠牲になった。お母さんも一時生き埋めになった。当時、金親さんは、実家の南側、国道43号線の北側の平田北町にマンションを借りていた。マンションは壊れ引き払った。あの有名な阪神高速倒壊箇所のすぐ近くである。
不幸の連続…そして区画整理
被災地の中でも被害が極めて甚大だった芦屋市西部地区に、土地区画整理による「まちづくり」計画の話が出てきたのは、当然といえば当然だった。しかし金親さんらは区画整理に強く反発し、地区の人々とともに闘った。
「住民から土地を取り上げ(減歩)、広い道をつくって、結局その道も行き止まりになるんやから、青空駐車場になるか、悪ガキのたまり場になるだけなんや。確かに消防車が入られへん狭い所はやらなアカンと思う。けど、全部一度に手を加えることはない。芦屋市は高級イメージがあるけど、実は有力企業がないから金がないんや。だから国が青写真を描いた区画整理に乗って補助金を引き出すしか、まちづくりの方法がない。それでゼネコンがもうかる。まさに土建屋国家やな。だいたい、まだ生き埋めになってる人がいた震災後3〜4日後に被害調査をやってるんやで。行政側にしたら区画整理の千載一遇のチャンスいうことやろ。どこかに書いてあったけど“復興ファッショ”やな」
神戸空港の問題も、徳島県の吉野川の可動堰の問題も基本的には同じ構造である。金親さんの5年前の怒りは、まったく風化していない。
「家もなくなって、土地も取られて、もう取られるもんはないやろ」
自虐ネタの裏には「娘も亡くして、オヤジも失って…」という思いが込められていたんだと思っている。同僚たちとも「なんで金親さんだけ、不幸なことが続くんやろう…」と言っていた。天職ともいえるインターネット担当に就き、2年前ふたり目の娘さん・りなちゃんも生まれ順風に戻ったかに見えた矢先の信じ難い訃報だった。最後の対面の時、りなちゃんが「とーちゃん〜っ」と泣き出したことが涙を誘った。
大阪のオバちゃんのよう
それにしても口数の多い、グチらしたら天下一品の「クレーマーだった」。これは、奥さんのはるかさんが言っていることだから誇張ではない。
クチの悪い同僚たちは、人の話にすぐ首を伸ばして“かんでくる”ことから「カミ親さん」とか、話している感じが、いかにも大阪のオバちゃんのようなので「金オバちゃん」などと、からかっていた。私からみれば11年も年上なのだが「先輩とか、誰と同期という感覚から一番遠い所にいる人」(同僚弁)であった。
はるかさんは「寿男のことを記録しておきたい気持ち、わたしも持っています」と、今回の取材にも応じて下さった。涙と笑いなしには聞けないエピソードを、いろいろ教えていただいた。
「最後の出勤になってしまった日、11月5日でしたけど、高速道路の料金所で係の人が、お釣りを間違えたんですね。500円のところを100円玉を渡されたんです。家に帰ってさっそく電話してました。『きょうまでやったら毎日通ってたから、返してもらいに行けたけど、あしたから会社休むから今度いつ通れるかわからへん』と」
文句を言うだけ言って、結局どう対処してほしいのかイマイチわからない“タチの悪いクレーム”である。その誤りの領収書も、今では宝物となって部屋の壁にクリップでとめられてあった。
入院後も「本屋や売店から一番遠い。なんとかしてくれ」と看護婦さんを困らせたという。「『それだけ文句言う元気があったら大丈夫やわ』と言っていたんですけどねえ…」。
作家の筒井康隆氏の大ファンで、約10年前、朝日新聞で連載小説『電脳筒井線』が掲載されていた時、金親さんはそれを読んで、いろいろコメントし合うパソコン通信の仲間に入っていた。当時、夜中まで仕事をしていた金親さんは深夜の帰宅後、夜通しでパソコン通信に、のめり込むことが日常だった。午前4時頃になると朝刊を読んだ仲間から書き込みが入り出す。金親さんも早く読みたい。けど朝刊が届かない。金親宅は、宅配ルートの最後の方だったのだ。当然、販売店にクレームである。「朝刊を早く届けてくれ。読んでから寝たいんや」。
きわめつけは…“ふりかけ事件”である。
「永谷園の『おとなのふりかけ』ってありますよね。それを食べて『サケ味と書いてあるのにウニの味しかせえへん』とはがきを出したんです。永谷園の返事には『当社ではウニ味のふりかけは作っておりませんが…』と書いてましたが、新しい品物を送ってきましたよ」
ここまでくればパラノイア(偏執症)の世界?(ゴメン金親さん、言いすぎかな)
お届けできなくて…
金親さんは、私にとって、かけがえのない理解者だった。約10年間にわたり、私が編集スタッフの一員だった「月刊お好み書き」の読者であり続け、毎号何らかのコメントを下さった。「震災前後のこと」と題された涙なしには読み進めない原稿を寄せていただいたこともあった(95年8月号=通巻65号)。また、いまだ懸案となっている区画整理の問題で小講演会を催し、講師をしてもらったりした。
本誌をたち上げる際にも「雑誌なんか、できるんかい? どうせ、また会社のコンピューターとかプリンター使こうて公私混同するんやろ」などと毒舌ぶりを発揮したあとで、いつも最後は「しゃあないの〜」と、いろいろ助けていただいた。私が苦手なコンピューター分野でも「師匠」で、つい3カ月ほど前にも「違法やで」と言いながら、レイアウトソフト「ページ・メーカー」までいただいた。結局、使いこなせず「金親さんの遺品」での制作は次号以降に持ち越しとなってしまった。おそらく天国で「ホンマ世話の焼けるヤツやの〜。ちゃんとマニュアル読めよ。そこを選択してクリックしたらしまいやないか」などと、しゃべりたくてウズウズしてるに違いない。
はるかさんからも「大西さんが新しい雑誌を作るというので、ふたりで楽しみにしていたのに、読ませてやれなくて残念です」との言葉をいただいた。当初の予定では生前に、なんとか間に合ったはずなのに、お届けできなくて…。
コミニティー道路反対貫く
また1月17日が過ぎ、震災から5年が経過した。金親さん宅のある津知町は区画整理の対象地区となっていて、いまだ3〜4割くらいが更地のままの状態だ。区画整理の事業決定後は、対象地区では土地の線引きが決まるまで、自分の土地であっても新たな建造物を建てることができない。帰りたくても帰ってこれない人が、たくさんいるという閉塞状況が続いている。一方で区画整理自体を行なうということは既成事実化している。区画整理というのは、公共用地をつくるための事業だ。入り組んだ私道をなくし、街を碁盤の目のように整え、消防車等が十分に入れるような道や防災のための公園をつくる。それを、対象地域の住民が少しずつ土地を提供しあって(減歩という)、公共用地となる土地をつくり出し街を整備し直そうという手法である。芦屋市西部地区の区画整理の目玉のひとつは8メートル幅のコミニティー道路をつくることだという。
金親さんは、96年6月家を再建した。区画整理の事業決定後では建てられなくなるので、事業決定前に建築許可を取った。仮住まいを何年続けなければならないかわからない、また仮に再建後、区画整理の網にかかって、再び家をつぶして建て替えしなければならなくなっても、補償金が出るだろうという読みだった。
市側も譲歩し、現に存在する家は、なるべく壊すことなく区画整理を進めるということになった。しかし“目玉”のひとつであるコミニティー道路は譲れないのだという。住民側も大筋で応じる方向という。結局、町内で実質的に建物部分に道路がかかってくるのは金親さん宅だけ。はるかさんたちは、町内の同じような条件の土地への移築を強いられそうなのだという。
5年前から一貫して、金親さんはコミニティー道路に反対してきた。
《移築になれば補償します、というが、補償さえすれば済むことでしょうか。自力復興で我が家を建てた皆さんは、普通に建てるだけでも大変なのに、震災のショックと2〜3度の引っ越し、不便な仮住まい、遅々として進まぬ建築に耐えて来て、やっとひと安心してお住まいです。それを「退け、壊せ。金をやるから文句をいうな」と言っているのです。それも必然性のない道路拡幅のために。…中略…また補償金は元をただせば税金。全くのムダ遣いです》(97年3月30日、金親さんが「まち再興協議会」に提出した意見書より)
そして内容は割愛するが、単なる反対ではなく、消防車が入りにくい狭い箇所を解消する具体的プランの提示も行なってきたということも付け加えさせていただく。
しかし昨年秋、隣にマンションが建つことがわかり、金親さんも、はるかさんも移築やむなしに傾きかけていたという。
「突貫工事でつくった家ですから、いろいろ不都合が多いんです。今度こそ自分たちで理想の家をつくろうと話し合ってたところだったんですが…。移築するしかないでしょうけど、もうお父さんとの思い出が何もない家になってしまいますからねえ。(震災前後から)いろいろ悪いことが続きましたが、その分、共有できるものも増えたんですね。お父さんとは関係のない家に移らないといけないのがつらいです」
「まるで終戦記念日やな」
関西では1月17日を前に、新聞もテレビも、いわゆる「震災もの」のメニューがあふれた。そして17日を境にほとんどがピタリと消えた。いけないとは思いつつ、1年以上震災取材といえるものを、行なっていない私が言うことではないが、今年の「震災もの」は、ひとことで言えば“幕引き”だった。昨年中には最高でひとり100万円の支給を終えたはずの「生活再建支援金」についての検証すらなかったと思う。十分だったという話も拡充すべきだという報道も私は見ていない。中には被災地の今の問題点を映し出すもの等もあったが、最後は「鎮魂」「復興」「記憶」だった。金親さんは「まるで終戦記念日やな」と言っているに違いない。
金親さん宅の移築費用は95%以上は補償金で出るというが、今ある家をつぶして新しい家が完成するまでの間、仮の住まいを探さなくてはならない。同時にふたつの土地を所有するわけにはいかないから、今の家に住みながら新しい家をつくることはできないのである(それを可能にするには芦屋市がいったん土地を買い上げ、金親家に一時的に貸すしかない)。はるかさんは、現在2歳のりなちゃんと金親さんのお母さんと共に、今度は一家の大黒柱となって目の前の苦境を乗り切っていかねばならない。
「ウチはまだ補償金が出ますからまだラクですよ。マンション再建なんかでダブルローンを抱えている人なんか、もっと大変ですよ」とはるかさんは言う。5年が経っているのである。ダブルローンを抱えた家でも、金親家のように一家の大黒柱を失った家庭も、きっと少なくないのだろう。
“土建屋国家”と闘った5年間
私は、金親さんを震災の象徴と思っているわけではない。私にとっては、愛すべき、ちょっぴり自分勝手な“オバちゃん”である。ただ、金親さんが家族のために、震災と、そして少し大げさな言い方をすれば“土建屋国家”たる日本の国家体質と闘ってきた姿は、心に刻んでおきたいと思う。(大西 純)
◆金親さんが書いた「震災前後のこと」は、ご自身のホームページ『月給盗りの館』http://www.asahi-net.or.jp/~VX1H-KNOY/で、ご覧になれます。「震災前後のこと」で検索することもできます。ぜひアクセスしてみて下さい。
|