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「容貌」から「顔」へ向かって 松本学さんは今、広く「顔」が「普通でない」人たちの自助グループ「ユニークフェイス大阪」の世話人として活動しています。松本さん自身、顔の左側が「腫れて」います。限りなく「ふつう」に近く、少しアンバランスな印象を受けるだけですが、それが原因で、いじめをはじめとして、いろんな生きずらさを経験してきました。人間にとって顔とは何なのか? さまざまな角度から考えます。今回は「容貌」と「顔」の違いを考えました。
左の頬に「腫れ」がある私
私の顔。「ふつう」に限りなく近い。しかし、「ふつう」そのものではない。では、いったいどういう顔なのか? 左の頬からあごにかけて、大きな腫れがある。そのため、今まで「おたふくかぜ」といわれたり、「歯が痛いのか?」とたずねられる。左眼のまぶたもはれぼったい。ウインクをしているようでもある。一目見て、「あれ?」ともう一度見なおしてしまうような、顔。しかし、おたふくでも、歯痛でもない。これは生まれつきなのである。そして、腫れているからといって、痛みがあるわけでもなく、悪性のものででもない。ただ、腫れているのである。生まれつきこの顔なのである。これを医学では、「リンパ管腫」という。これが私の顔である。リンパ液の入った小さな粒が顔の左の医頬から首にかけて、無数にある、らしい。顔面神経の下にまでこの粒はもぐりこんでしまっているから、手術をしても、とり切る事が不可能である。 ユニークフェイスとはなにか
このような生きづらさを背景として、1999年3月、大阪梅田で、ユニークフェイス大阪が発足した。東京、中部と足並みを合わせてである。99年11月末日現在の会員数は全国で約120名。そのうち、大阪30数名、そのうち女性が大半である。このユニークフェイスとはどのようなグループなのであろうか。これには少しく説明を要する。私たちのグループは、「容貌」と「顔」の問題を抱える人たちのあつまりである。あざ、キズ、麻痺、病気などによって顔が「ふつう」と違うとされてしまう人々の集まりである。ここで注意してほしいのは、このグループが、たとえばリンパ管腫だけで、集まってくるのではない。今までに、疾患ごとといった学問的分類にしたがって、集まった集団は多くあった。難病のさまざまな患者会、精神病などのグループ、アルコール依存、薬物依存などの嗜癖から立ち直ろうとするグループなどである。しかし、私たちは、そういった既成の枠組みではなく、「見た目」の問題という新しい枠組みで集まってきている。今までに存在した患者会の枠をこえた、大きな枠組みなのである。見た目の問題があるといえば、たとえば、やけどの会フェニックスがあげられようし、先天性四肢障害児父母の会、口唇口蓋裂の親の会なども、「みため」の問題を抱えることがあろう。また、どこかの医学部の医師によって半ば強制的に集められたわけでもない。私たちは、非常な偶然と、何人かの強固な意志によって結び付けられた当事者集団なのである。 「顔」と「容貌」の違い
私はここで、「顔」と「容貌」との違いを指摘することで、これからの話を進めていきたい。私たちはふだん、顔を何気なく見ることで、日常生活を送っている。しかし、顔という場所には二つの意味の違いが存在する。ひとつは、デザインとしての顔。医学写真の顔などは、その顔に人格を見ることはふつうしない。症例を指し示すために使われる顔。カタログの顔。これを私は、「容貌」と呼びたい。たとえば眼や鼻のかたち、輪郭などはデザインである。 容貌を過剰に意識させる「常識」 会が実際にはじまって、改めて感じたことがある。今まで日本ではこの問題が大々的に取り上げられなかったということだ。これには、いくつかの側面がある。まず、ユニークフェイスを抱える本人とその家族は、ユニークフェイスであることをいかにも些細なこととして、扱ってきた。これには、いくつかの「常識」が影響している。 「顔は問題じゃない」という建て前
はじめの「常識」は、「見た目の問題」は、「人間の人生にとって本質的なことではない、二次的な問題である」ということである。この「常識」の与える影響力は大きい。たとえば、「顔はもんだいではない、こころこそが大切である」という言い方。とくにユニークフェイスを持つ人が男性である場合、容貌ではなくて、内面性で自分を表現するように求められる。内面性という土俵で勝負すれば、必ず評価してくれるという慰め。しかし、そういう「常識」と表裏一体となって、非常に強力な「デザインの美至上主義」が存在する。この「常識」は、先の「内面イコール本質」という「常識」があるがゆえに、存在することができる。「本質的には内面が大切である」と留保することで、建前としては、前者をかたり、現実の行動には、後者を適応する。これが、「ふつう」の人の戦略のひとつであろう。この「常識」に裏打ちされた価値観がもっとも反映されているものが、テレビである。テレビに登場する俳優は美男美女であり、一般に「性格俳優」といわれる俳優でも、ある一定レベルの容貌の規準を満たしている。たとえば、久本雅美が、美しさで売っていないといっても、それは、一般の人が安心してみることのできるレベルの顔である。その程度の顔は、すでに折込済みなのである。つまり、私たち(「ふつう」の人と、ユニークフェイスを持つ人)は、「容貌」という言葉とその言葉が意味するものの範疇をあらかじめ予想している(ここで、ユニークフェイスをもつ人は、「ふつう」の人に負けず劣らず「容貌の美」にこだわるということは十分に考えられる。実は、かくいう私もそうであったかもしれない)。つまり、ユニークフェイスをもつ人は、「ふつう」の顔の規準から外れてしまう。ここに、さまざまな問題が生じるのだ。換言すれば、「容貌」と「顔」はちがうものであるはずなのに、私たちは、この二つのものを一緒に論じてしまっている。いっしょに論じてしまうがゆえに、ユニークフェイスを、美醜の問題にひきつけて議論してしまうという傾向が生じるのだ。その結果、当事者は、美醜という観点からは、どうすることもできない、また、美醜は本質的なことではないということから、問題を隠蔽するのだ。一方、「ふつう」の人は、「美は本質ではない」という「常識」を隠れ蓑にすることによって、堂々と美至上主義へと入り込む。ここに、ユニークフェイスの問題は入り込む余地を見出せないのである。 「顔の美」の価値
これまで述べてきたこと、これからユニークフェイスというムーブメントが目指していくものは、どういうものだろうか。 あえて容貌/顔をさらす ただし、ここには、ある種の修練が要求される。「顔の美」は、容貌からにじみ出てくる美しさであり、ただ見るだけでは、見るものの前に現前しない。そのように困難な顔の美を、「ふつう」の人が見つけられるように、私たちは活動しつづけなければならない。そのために私たちは、メディアにも出つづける。今まで隠蔽されてきた容貌/顔をあえてさらす。そこには、見世物小屋を見るような、好奇の目が存在することはわかっている。そして、こうした好奇の目がもっとも隠微な差別であり、もっとも強固に身についてしまっているということも確かだろう。それでも、少なくとも私は、少しづつ顔の美を認めてもらうために、容貌の美だけで人を判断してしまうような社会の規範に対して、異議申立てをしていくつもりである。こうして、彼らに、私の容貌と顔を、容貌と顔の違いをつきつけることで、私たちの問題が、わずかでも理解されていくために。 | |