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『官ビール』に『死斑ビール』
ああ貧困…近代日本の「酒文化」
「ビールって自分でつくれるんや」―。手づくりビールキットを見つけて心を奪われ、そのキットの製作者である山本醸自さんに、ほとんど飛び込みで取材に行ってから、もうすぐ5年になります。当時は震災後取材の真っただ中。こちらまでつらくなることが多かった中、久々にウキウキ気分で話を聞きに行ったのを覚えています。で、「自ビール」ですが、ウマイ! めちゃめちゃウマイ!!のです。酒好き、話好きの醸自さんの話は、ビールのつくり方にとどまらず、「酒文化」「食文化」果ては「国家論」にまで及びました。醸自さんと出会ったのは、くしくも「地ビール元年」と言われた1995年のことでした。それから5年、景気低迷とともにつぶれていった地ビール会社は少なくありません。この連載は、「地ビール元年」以降を中間総括する、ちょっぴり苦味も効いた「ビール文化論」です。ご賞味下さい。
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◆山本 醸自(やまもと・じょーじ) 手造りビール師。1955年1月、大阪府吹田市生まれ。京都大学農学部で酵母の研究をする。不動産業を営みながら、92年、手造りビール師グループ、有限会社「醸自倶楽部」を立ち上げる。世界一、ビールをウマそうに飲む男。
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手造りビール師・山本醸自と、本誌発行人・大西純による誌上対談
純 山本さんにはじめてお会いしたのは、何年か前の夏の暑い日で、その時ちょうどテレビの取材が来てましたね。
醸自 あっそうそう、ちょうど板東英二さんが醸自倶楽部にやってきて、『自』ビール造りに挑戦して、さらにその造った自ビールをプロの地ビール屋さんに持ち込んで「味で勝負」と道場破りに挑むという、設定でした。
純 そういえば、板東さんがでっかいフライパンで麦を炒ってましたね。それからどうなったんですか。
醸自 板東さんまじめな人で、本気で麦芽と格闘してましたよ。名誉のために言っときますけど、ストーリーはプロデューサーが創って、材料、道具は醸自倶楽部が用意しましたが、仕込もビン詰めもちゃんと板東英二さんが二回ともやってきて、自分でやらはりました。それで、出来た自ビールを『英二ビール』と名づけて、『地ビール三田屋』に持ち込んで、そしたら、実際にその味が美味しかったもので、三田屋の喜八郎社長のビールに勝ったんじゃないか、言うてはしゃいではりました。ほんまに上手いことで来たので、僕もびっくりしたぐらいです。
純 今、当時の手帳を見てますと、あれが『地ビール元年』と言われた平成七年のことでした。そうすると日本地ビール年度で言うと、今年、西暦二〇〇〇年は『地ビール六年』ということになりますが、今回は、地ビールと自ビールということで、この五年間で日本人の飲んでいるビールがどう変わってきたか、また今後の地ビールはどう変わって行くのか、というあたりのお話を『アジャパーWEST』にチョット軽く、書いていただけないものかと思いまして、やって来たんですけど。
醸自 大西さんさすがに、いいとこ突きますね。しかし、この地ビール解禁前から日本で飲まれていた一般の市販のビール、これが実は、曲者なんですわ。それから、ビールの発祥とか、原材料とか、造り方とか、しまいに『酒文化』『食文化』『個人の幸福追求権』まで関係してきますから、『ビール』って一口で言うても、飲むのは簡単ですけど、書くとなると、チョット軽くという訳にはネー。
純 そうしましたら、二十ページでも、三十ページでも。
醸自 三十ページて、そんな『中〜途半端な』チャランポランやあるまいし。自・地ビールゆうたら僕のライフワーク、命と肝臓を賭けてやってるんやから。
純 ほんなら、どどーんと連載でいきましょうか。実は僕自身、ビールについて聞きたかったことがいっぱいあるんですわ。『アジャパーWEST』読者にも、ご質問、ご意見を募集して、どーんと行きましょか。
醸自 そういうことやったら、ジャンジャンバリバリ書かしてもらいます。
純 といっても、面白くなかったら、打ち切りにさしてもらいますけど。
醸自 なんじゃそら。
純 そしたら、まずビールといえば、一体全体、何種類ぐらいあるんでしょうか。そのあたりからひとつお願いいたします。
醸自 まず、いっぱい飲みながらビールの分類というところあたりからいきましょうか。
純 では、よろしくお願いします。
一、はじめに
『ビール』というものを一刀両断すると『一般のビールと地ビール』ということになります。しかしここではもっと突っ込んだ分析をするために『ビール』という魚を俎上に載せ、良く切れる出刃包丁で三枚におろしてご覧にいれましょう。その三つの部分をそれぞれ『アジャパー風』に調理・味付けして、思いつくままに盛り付けてゆくと致しましょう。読者の皆様にはごゆっくり味わっていただきたいと思います。
醸自流『二○○○年のビール新解釈』が、WEST WINDに乗って『アッ』という間に『ジャパン』中に『パアー』と広まってくれることを願いつつ、じっくりと丁寧に、皆様のご要望もお聞きしながら料理してゆきたいと思いますのでご協力をよろしくお願いいたします。
味わっていただく前に、まず材料の調理方法、切り口について皆様にご説明しておきましょう。
一般にビールの種類は、世界中で二万種類あると言われていますが、これは銘柄数のことであります。また、七十種類とも言われています。これは、原材料や酵母菌や醸造方法などの違いによる出来上がりビールのスタイルの種類と思われます。こういったビールの分類方法による解説は他の多くの書物に譲り、ここでは日本で現在飲むことができるビールに関して、醸自流独自のビール論で切ってゆきたいと思っております。
さて、ではこの三枚におろしたビールの、まず一枚目は『自ビール』。二枚目が『地ビール』。三枚目が『メーカー系ビール=官ビール』となります。
ビールの発生から見ても、醸造の規模から見ても、進化の道筋から見ても、ビールは『自ビール』『地ビール』『メーカー系ビール』の順番になるはずなのですが、戦後の日本のビール史は、ある要因により逆に『官ビール』から再スタートを切ったのでした。世界各国のビール事情でいうと、この三番目の位置には『メーカー系ビール』または『大手メーカー系ビール』が来ます。一方、日本における大手メーカー系ビールは、比類無き高税率という面からも、品種・品質・価格の無個性・均一という面からも、またメーカーと官僚が一心同体となっているという特異な側面から見ても『九九%官ビール』としか呼べないしろものになっていると言わねばなりません。
ではこの三種類のビールの線引きの意味を皆様の馴染みの深い順に、ご説明いたします。
『官ビール』
戦後の日本では、一九九五年(平成七年)以前には『日本には、アッサリ味のピルスナータイプのビールたった一種類しかない』と言われてきた。大日本帝国主義が酒の文化性を否定して、戦費調達のために日本のビールを、一本の『ビール』という名の『官ビール』にしてしまったのである。戦後ビール会社は分割されたが、完全超寡占・同一品種・同一価格の状況ははごく最近までほとんど変わっていない。
このビールには『とりあえずビール』『まずビール』さらに皮肉って『めかけビール』などの別名があり、外国人の中には、日本には本当に『とりあえず』という名のビール会社があると信じる人が多数いたとしても当然。しかしこれらのビールの『あだ名』の意味するものはいったい何物なのだろうか。その名の意味するところはつまり、当時(平成六年以前)の日本にはビールを飲む側には全くもって選択肢はなかったということなのだ。何故このような悲惨な状態になってしまったのだろうか。
この大手メーカーが、冷蔵庫の中で一貫して自動生産している七〇〇万キロリッター(年間)のビールをここでは『官ビール』と呼ぶことにする。七〇〇万キロリッターとは、東京ドーム六杯分となる。
『自ビール』
一九八二年(昭和五七年)ホビーとしての手造りビールが盛んで、法制的自家醸造先進国の英国から『ビールの素』と『王冠打栓器』が日本に初めて導入され、輸入販売が開始された。その後、無酒文化地帯の日本に於いて、多大な苦労が払われた後、日本自家醸造推進連盟が組織され、『地ビール解禁』の追い風を受けるなどして、二○○○年の現在までに約三○万個の打栓器(ビールビンに王冠をする機械)が販売され、およそ五○万人に上る自家醸造家達が爾来数百万バッチに上る『ビール』を綿綿と醸造してきているのだ。
この世界の国々のいたるところで、幾千万人の個人が各家庭で、ホビーの王様として醸造しているこのビールのことを、ここでは『自ビール』と呼ぶ。
『地ビール』
一九九三年(平成五年)九月一日、時の政府日本新党・細川内閣が打ち出した規制緩和政策の一環としてビール醸造免許の数量的規制緩和方針が発表され、翌九四年(平成六年)四月一日に酒税法の改訂。その結果、翌年の九五年(平成七年)には醸造規模年間六○キロリットルという『小規模ビール会社』=『地ビール会社』が日本に次々に誕生したのであった。そして二○○○年の現在では、日本には二八○社に上る法人がビールの醸造免許を取得して地ビール会社となり、千をこえる銘柄のビールが販売されているが、これらを我々は一応『地ビール』と呼んでいる。
二、ビールの発祥
ブドウの実をつぶすとたちまちワインへと変化を始める。ハチミツはお湯に溶かすと同時にミードというハチミツ酒へと変化を始める。
今から五五〇〇年前のメソポタミアで、ビールを醸造する様子が描かれている。エジプトではピラミッド建設の労働報酬として五〇〇〇年前に、ビールが支払われていたと記されている。しかし、これは、絵画や文献などの歴史的な証拠を根拠とする学説なのであり、証拠はなくても麦があった時から、既にビールはあったと私は思っている。私の説は学説ではなく根拠が無いので、新たな発見によって覆されることも無い。自然発生にしても、栽培するにしても麦があったなら、雨にぬれて発芽する。発芽して麦芽となった時に水に浸かれば、すなわち自然に発酵はおこる。納得すればそれで良い。ブドウでも、ハチミツでも、麦芽でも、とにかく甘いものの隣にはいつも酵母菌が待ち伏せしていて、適当な甘さの汁になりさえすればいつでもアルコール発酵をスタートさせるのだ。
発酵が起これば、アルコールが発生し良い香が漂う。そうすれば、空腹な人は必ずこれをすすり、幸せになったに違いないのである。
甘い果汁や、甘いハチミツなどには天然の酵母菌がいて、自然に発酵し、酒となる。穀類であれば、澱粉なので、麦なら麦芽の糖化酵素を、米ならコウジカビの酵素を、人々は巧みに利用して、『甘い汁(もろみ)』として、発酵させ、酒に醸した。世界中で、この地球上で『酒』というものは、このようにしてもともと、自然に発生し、これを利用するという食文化から始まったのである。
日本は、稲の国であり、日本人は稲を栽培し、米を収穫して、どぶろくが自然発生的に醸された。しかし、日本でビールが醸造されるようになったのは、この日本国民本来のどぶろくの個人的醸造権を日本国民が失うまさにその時代だったのである。日本国民にとってビールは文化的に導入されたものではなく経済的に導入されたのであった。
そこで、ここではまず世界のビール先進国の話のから入っていこう。
三、 イギリスの『自ビール』『地ビール』『メーカー系ビール』
イギリスには、紀元前の古代ローマ帝国の征服時代に大陸からビールがもたらされ、『エイル=ALE』と言う名で親しまれるようになった。エイルは麦芽と水およびイーストで発酵させるのだが、日持ちを良くし腐らせないためと同時にフレーバー付けのために様々なハーブ(薬草)が添加された。ホップは、ルーピン、ウイキョウ、サフラン、イラクサ、マンネンロウ、エイルコスト、カキドウシなどともにエイルに添加するハーブの一つとして登場するが、ホップが英国で始めて栽培されるのは一五二四年のことであった。しかし決してホップのみがビールのハーブとして使われていたのではなく、ホップを使用することに対する反対運動が起こった事さえあったのである。そして、現在のようにホップのみが唯一無二のビールのハーブであるかのようになるまでには実は随分と長い年月がかかったのである。
英国においてはもちろん自分が飲むための『自ビール』として、エイルが持ち込まれたが、このエイルは人気化し、一一八八年に初めて税が課せられた。 為政者達は、エイルそのもの以外に麦芽やホップなどにも課税した。エイルに重税が課せられたために人々がジンなどの安い蒸留酒に走り、アルコール中毒が蔓延したこともあった。そして、
一八三〇年 エイルにそのものに対する課税廃止。麦芽、ホップにはひき続き課税。
一八三九年 エイルの製造免許制。エイルの醸造に砂糖使用解禁。
一八八〇年 エイル原料への課税廃止、ビールのアルコール度数による近代的課税。同時に一定以上の資産税納税者に対し、販売目的でない自家醸造解禁。
一八八〇年代の英国には、一万七千軒のビールの醸造販売者がおり、さらに七万軒の自家醸造者がいたという。
一九六三年 ついに大蔵大臣モードリングの時、「同時に一定以上の資産納税者に対し」という項をはずし自家醸造解禁。いわゆる近代文化国家における自家醸造(HOME BREWING)の歴史がここから始まったのである。
この全面解禁後、直ちにビールメーカー向けに麦芽(モルト)や濃縮麦汁(モルトエキス)を供給していたモルトメーカーは、自家醸造家向けに家庭用サイズの缶詰にしたモルトエキスの販売を開始したのである。このモルトメーカーとは収穫したビール麦に芽を出させてモルト(=麦芽)を製造し(製麦という)、またその麦芽を糖化、濃縮して濃縮麦汁〔モルトエキストラクト〕を製造して、これらをビールメーカーに供給する会社であるが、自家醸造家(Home Brewer)層の誕生が、また新たなる顧客層を創生し、新しいホビー産業『BIY』(Brew it Yourself )が誕生したのである。(日本にも、酒や味噌や醤油を醸造するために必要な『糀=こうじ』を製造し、造り酒屋や、味噌屋や、醤油屋や、家庭における酒、味噌、醤油つくりをする人達に供給する『糀屋』がかつては多数が存在したのだが。)そして合法的に『自ビール』を造りはじめたホームブルワー達は手造りビールの美味さに目覚め一九七〇年代に入ると『濾過、炭酸ガス注入、冷却による沈殿促進』などの工業的手法を駆使した 六大メーカー(その後一社が吸収合併で減少)のビールをケミカルビールとして排斥し『あの本物のエイルを自分達の手でもう一度』と『CAMRA』=「CAMpaign for Real Ale」というエイル文化復活運動を展開したのだった。これは、冷蔵庫で造る、下面発酵の、酵母菌のいない、ピルスナータイプの自動生産方式の『うすいビール』に対する、常温、上面発酵の芳醇なエイルタイプの手造りの『濃いビール』の復興運動であった。
英国には現在、ビール消費全体の八七%を生産する五つの大きなビールメーカーと、その他のシェアを分け合う約七〇社の中小ビール会社がある。そしてこれら大・中・小のビールメーカーが六〇〇〇軒にも及ぶパブ・ターバン等の飲み屋にそれぞれ独自のビールを供給しているのだ。大手五社とは、バス、カレッジ、アライド、ウイットブレッド、スコティッシュニューキャッスルである。ギネスはアイルランド共和国の会社である。
そして、もちろんこれ以外に英国には三五年間の合法的自家醸造の歴史があり、百万人規模の自家醸造家が家庭のキッチンでビールの醸造をし、愛飲しているのである。
そしてこのビールの自家醸造『自ビール』は『ホビーの王様』として、ヨーロッパ各国、アメリカ、カナダ、豪州へと文化として広がって行くのである。
四、 アメリカのビールは、酒文化は
概説
アメリカでは、欧州人による大陸発見以後、十六世紀に入ると、次々に移住、入植が行われ、建国が進められ、それに従って何百、何千という、ブルワリー(ビール醸造所)が造られていった。それが、一九二〇年よりたった十三年間の禁酒法時代に、(ほとんど)すべてが失われた。禁酒法廃止以後に生まれたのは、さっぱり味のピルスナータイプを生産する巨大なビール会社であった。合州国では今から二〇年前に、個人の自家醸造が法的にも完全解禁になると、その後十年間で百軒以上の、さらに次の十年の間で、もう千軒以上もの地ビール屋が誕生した。そして、その水面下には、百万人規模の自家醸造家群が存在しているという、現在ではかなり正常な民間主導型・ピラミッド型の『一、自ビール 二、地ビール 三、メーカー系ビール』という序列のビール文化が育ってきているのである。
詳細
アメリカには、アメリカインデイアンという原住民族がいたが、コロンブスの新大陸発見以後のアメリカの歴史は高々五〇〇年程度である。それ以後のアメリカの『酒文化史』は開拓の歴史とともに、何百、何千というBREWERRY(ビール醸造所)が建設され、開拓者達ののどを潤してきた。そしてワインやバーボンウィスキーが生み出された。それがなんと一九二〇年〜一九三三年の十三年十ヶ月十九日七時間三十二分三〇秒の間の『禁酒法』という『酒を造っても売っても買っても飲んでもいけないという実験』を試行し、みごとに失敗したのである。アメリカは自由の国とは言うが、時々とんでもないことを皆でやろうと言い出す。
一九三三年の禁酒法廃止と同時にアメリカでは、ワインの自家醸造は解禁になった。しかし、ビールの自家醸造解禁は議会の議事録の速記漏れのため一九七九年のカーター大統領の時代まで待たねばならなかった。建国の槌音とともに築いてきた何千軒ものビール醸造所の多くは、エイルタイプの濃厚なビールを生産していたが、それらは十三年間の『悪夢』を見ている内に消滅し、そして解禁後に立ち上がったのは、バドワイザー、クアーズ、ミラーといったアッサリ味の『ピルスナータイプ』を冷蔵庫内で自動生産する巨大なビール会社であった。
ではこの暗黒時代の以前と以後のビールにはどんな変化が起こっていたのか。
『悪夢』以前のミニブルワリーの多くは、エイルイースト(学名・サッカロマイセスセルビシエ)による常温発酵・未濾過の濃厚な上面発酵ビール(=エイル)を醸造していたのだが、以後のビール会社はすべて、冷蔵庫を用いた大量生産ラインで、ラガーイースト(学名・サッカロマイセスカールスバーグ)による低温発酵・アッサリ味・濾過・ビン/缶詰、自動生産大量流通ビールのみになってしまったのであった。
彼らは何と『製造時に添加するホップの使用量を一割削減すると、販売量が一割増加する』と言い放ち、日々ホップの使用量を減らし続け、年々、月々味の薄いビール造りを探求している。
クアーズから販売されている極めつけのビール『ZIMA』は無色、無味、無臭でサイダーのような『ビール?』である。原材料:麦芽、コーン・シロップ、ホップ、保存料(安息香酸、ソルビン酸)としてある。天然の保存料ホップの使用量を、極力(ゼロ近くまで)抑えたので人工保存料を使用しているのだろう。麦芽やホップの風味や痕跡は、色とともにさらさら無い。
このアッサリ味に飽き足らないビール飲み達は、実際には自ワインつくり同様に水面下で日々手造りビールに励んでおり、一九七九年の法的解禁以後ただちに、『自ビール自慢の醸造家』が『地ビール屋』を開業し始めたのである。そして一九九二年には、『三百二十一人』のマイクロブルワーが、そしてさらに一九九七年には『一一五〇社』に上るマイクロブルワリーが開業している。この数字はいったい何を意味しているのだろうか。それはつまり、アメリカのマイクロブルワリー『地ビール屋』とは自家醸造家が、自分の造ったビールが美味いから、たくさん造って人様に売るようになった人達そして組織なのである。つまり千人の醸造業者はその何百倍もの人数の自家醸造家群の中から輩出した職業醸造家なのである。これこそ規制緩和による、新産業の創出なのではあるまいか。
アメリカでは個人のビール自家醸造は一家庭あたり年間二〇〇ガロン(約七五六リットル)以内であれば、FREE(無税、自由、無申告)である。彼らは、三〇リッターから二〇〇リッター程度のプラスチック製発酵容器をキッチンに備えており、この中でビールを発酵させ、樽詰またはビン詰にして、オリジナルラベルを貼り、自慢し合いながら家族や友人達とパーティーやコンペを繰り広げて『自ビール文化』を楽しんでいるのである。
さらにそれ以上の量のビールを生産する手造りビール師達は、届け出をして年間生産量―七六〇キロリットル以下であれば、(大メーカーより)低率の酒税で醸造販売ができるのである。
総括=アメリカでは
開拓・建国以来四〇〇年以上の間培ってきた、自ビールと自営レストランやパブの地ビールの歴史が、一九二〇年からの禁酒法暗黒時代に消し飛んでしまい、次に、アッサリ味・巨大・均一のピルスナタイプで濾過されたメーカー系ビールの時代が到来した。一九七九年の自家醸造の法的解禁により腕の良い潜在醸造家がカミングアウトし即座にマイクロブルワリーを建設してしまった。さらに新たに大勢の自家醸造家は増加し続け、自家醸造文化が形成された。自家醸造家の造るビールは、常温発酵で薫り高い『エイル』だ。そしてその当然の帰結として、自家醸造家の中から優秀なブルワー『手造りビール師』が登場し、芳醇な薫り高い『エイル』を提供するブルワリーパブやマイクロブルワリーという形態が企業として千社以上成立するに至ったのである。
アメリカ合州国では、彼ら『手造りビール師』達の生産するビールは『CRAFT BEER』と呼ばれ、大手メーカーの工場生産均一ビールよりワンランク上等のビールと位置づけられている。アメリカでは、ビールは手造り自由で無税、開業もいたって簡単だが、しかし、そのビールが評価されずに営業不振となり、廃業に追い込まれることももちろん多々あるのである。
アメリカのブルーパブで飲まれている『地ビール』は新鮮で、無濾過で、ビン代、ラベル代、輸送賃が不要な分だけ、コスト面で無駄が省け、さらに酒税の面でも、大手メーカーより数量効率の低い分だけ低税率の酒税になっており、リーズナブルな保護を受けている。
美味い地ビールを提供する業者をリーズナブルに保護するということは、結果的には消費者のためになる。このように、アメリカでは『自ビール』に導かれて『地ビール』は二〇〇〇年の今日も躍進中なのである。
しかし私が実際に一九九七年にロサンジェルスで飲んだ地ビールはやはりアメリカ人の大雑把さが感じられ、ロンドンで飲んだ英国人のつくったビールの方が繊細さが感じられた。
合州国の領土は広く、英国の歴史は重くて長い。
さて日本の『地ビール』はどうだろうか。
五、日本の酒文化とビール
平成五年九月一日、新聞各紙は、一面トップで政府日本新党・細川護煕内閣の規制緩和政策を報じていた。数々の緩和項目が並んでおり、そのまたトップに『地ビール解禁』の文字が躍っている。
平成六年四月一日、ビール製造免許の数量的規制緩和の実施数量が年間六〇キロリットル以上と決まり、施行された。
藤井大蔵大臣は、ニコニコしながらを発表していた。
「年間二〇〇〇キロリッターから、六〇キロリッターになります」
これで、地ビールができますとでも言いたげにさらにこう付け加えた。
「だいぶ、下がると思います」
この数字はいったい誰が誰のために決めたのか。これが失策でなかったかどうか、検証する。
日本はそもそも稲の国であり、どぶろく・日本酒の国であった。それゆえビールは、醸造設備も醸造技術も当然海外から持ち込まれたものだった。江戸時代に渡航者によって幾度か、日本にもビールが持ち込まれたが、日本で最初にビールを醸造したのは、兵庫県三田村の蘭学者川本幸民で、一八五〇年台後半であろうと言われている。最初のビール工場『ブルワリー』はアメリカの醸造技師コープランドが、一八六九年(明治2年)に横浜に開設したスプリングバレーブルワリーである。
一五〇年前の日本には、ビール文化はなく、その白紙のところへこのようにしてビールは持ち込まれたのである。日本のビールを語る時、日本人の元来の酒『どぶろく=ドブロク=濁酒』を抜きにしては語れない。そして、酒税、酒税法、国家を抜きにしてもやはり語れない。また『酒』は食文化であり、嗜好品であり、胃袋の容量には限りがあって、いずれかの種類の『酒』を飲むということはその他の種類の『酒』をその分だけ飲まないことになる、ということも重要なファクターなのである。
日本酒の原形はドブロクである。江戸時代に『濁酒』を『清酒』にする技術が開発された。清酒を醸造して、販売するものは『造り酒屋』として発展した。ここに日本国民は、農家の『どぶろく』と、造り酒屋の『清酒』という、二種類の国民酒を持つに至った。造り酒屋の『酒』は大名や幕府に贈られ、よって保護され、そして課税され、持ちつ持たれつで発展していった。
明治となるころ、数千軒の造り酒屋が酒造業を営み、二百万軒もの米作農家の多数がどぶろくをつくっていた。もちろん自家醸造である。この『どぶろくつくり』は、稲作の自然延長線上にあり、農耕生活の一部であった。先に述べた通り、その頃日本にビールが持ち込まれ、醸造されはじめたのである。
ビールは日本酒の合間をぬって、少しずつ飲まれ出した。ビールの需要は増加するが、一醸造所の醸造能力には限界がある。そこで、当時無税であった輸入ビールの量も急増したが、ビール醸造所の増加につれて沈静化していった。ビールはまだ酒とは気づかれておらず、もちろん無税であった。
明治初期、全国で数千か所の(日本酒の)酒造場があった。ビールの醸造場は約百場に上った。
明治十八年(一八八六年) 香港資本が横浜のスプリングバレーブルワリーを買収、麒麟麦酒の前身
明治二四年(一八九二年)大阪府吹田村に『有限責任大阪麦酒会社吹田村醸造所』が建設され直ちに『醸造免許』が『下付』(この言葉は、ビールの醸造権を明治天皇が臣民に下されるという意味)され、翌明治二五年アサヒビールは初出荷を行い、登るアサヒのような大進撃を開始した。アサヒビールの製造技術、醸造設備はすべてドイツ製で、ドイツに留学し、ドイツ人技師を招き、一八七〇年代に開発されていた冷凍機を使用した冷蔵庫内作業であった。
ビールの需要は増加傾向であり、これを先取りしたエビス、アサヒ、サッポロなどは大増設、大増産を開始し、大資本化を始めたのである。明治二五年に初出荷したアサヒビールの年間生産量は明治三四年には初年度の約三〇倍で三万石に伸長していた。この間に資本力を持って、冷蔵庫式醸造法(低温下面発酵)を採用し、増産をすすめた会社は他を圧倒していった。下記の酒税史のようにビールへの新規課税、増税の間に、多数の新興ビール会社はあえなく消滅し、仲良しグループに集約されていった。
【濁酒自由醸造国家からの文化的転落史】
江戸時代、幕府や大名は所領内の酒造業者に冥加金〔みょうがきん〕や運上金という酒造税を課していたが、非販売目的の農家の濁酒はもちろん無税、造り勝手であった。
一八七一年(明治四年) 酒造免許鑑札制度、酒造業者がこれを取得し明治新政府の財源になった。
一八八〇年(明治十三年)農家の自家醸造濁酒の年間醸造数量を一八〇リットル以内とし、販売は禁止。一八〇リットルとは=一石=十升で、『酒の十本だけは、堪忍したろ』というお上の発想か。
一八八二年(明治十五年)どぶろく自家醸造の免許鑑札料年八〇銭
一八九四年(明治二七年)日清戦争。清からの賠償金で官営八幡製鉄所を建設
一八九六年(明治二九年)酒造業者向けに『酒造税法』を農家向けに『自家用酒税法』を制定。免許農家は一〇八万軒に、免許貸し横行、無免許も多数
一八九九年(明治三二年)『自家用酒税法』を廃止、酒造業の免許鑑札者以外は醸造を禁ずる。日本国民自家醸造全面禁止。酒税収入が国家歳入の三分の一に増加
日本で自然天与の個人『INDIVIDUAL』醸造権が剥奪されたのと時を『一』にして、日本国民に供給されるビールは『ビール』という名の、『たった壱銘柄』となりはてる道をばく進し始めたのであった。
六、 官ビールに向けて大ばく進
一九〇〇年(明治三三年)当時の大ブランド『エビス』『アサヒ』『サッポロ』『キリン』『カブト』の五社は、販売競争で食い合いをしながらも政府のビール税創設計画を前にして『全国麦酒業者同盟会』を組織した。これはしかし、政府に対しての課税阻止の圧力団体として発足したのだが実は後の『仲良しグループ』の始まりでもあったのである。
時代はまさに軍事国家日本が日清戦争で中国を侵略し、軍事費増大のために、ますます増税をして、日露戦争の準備をしているところであった。『発足間もなく幼い、成長段階のビール業界に課税するのは止めて欲しい』という仲良しグループの陳情はしかし『天皇陛下のためにロシアを盗ってこよう』という軍国政府者によって一蹴され、ビールに初めて課税がされた。生産数量の伸び続けていたドイツ式日本産ビールがこの年を境に、減産が始まった。美味いビールはもっと飲みたかったのだが、『軍事費用上乗せビール』は突然苦味を増したのだろうか。
一九〇一年(明治三四年)明治軍国政府、ビールに初めて課税。一石七円の造石税。弱小は淘汰され、この年のビール会社数、二十三醸造所
一九〇四年(明治三七年)日露戦争
一九一一年(明治四一年)年産千石(一八〇キロリッター)以下のビール醸造場免許取消
一九一四年(大正三年) 第一次世界大戦
一九三八年(昭和十三年)酒類販売免許制度発足。卸、小売り、媒介合計三十五万軒
一九三九年(昭和十四年)三社合同、大日本麦酒(アサヒ、サッポロ、エビス)
一九四〇年 (昭和一五年) 全政党が解散し、大政翼賛会に統一
一九四一年(昭和十六年)真珠湾攻撃、太平洋戦争
一九四四年(昭和十九年)ビールのラベルが『麦酒』の一種類に統一される
一九四五年(昭和二十年)ビールを一銘柄にした太平洋戦争終結
一九四九年(昭和二四年)GHQにより、大日本麦酒は『朝日麦酒』『日本麦酒』に分割。
しかし、日本製の『ビール』はその後もず〜っと一品種(日本ビールは後のサッポロビール)。
七、日本にも地ビールはやってきたのか
さていよいよ日本の『地ビール』だが、その出現前の胎動期二十年間にはどのようなことが起こっていたのか振り返ってみよう。
新製品『フィルタービール』が出た
マイクロフィルター技術の革新により、加熱処理(パスツリゼーション)なしのビールが登場し、やがて熱処理ビールが姿を消す。この方法によるのは、サントリー『純生』アサヒ『本生』であった(この加熱処理とは製品を摂氏六〇度に三〇分間保ち、酵母菌その他微生物を殺菌することによって、除菌する方法である。ラガーとは貯酒熟成のことであり、熱処理とは全く関係が無い)。そして、この非熱処理・フィルタービールを『生』と呼ぶ大欺瞞劇を大ビールメーカーと国税局が国民の前で演じることとなった。加熱の替わりにフィルターをかけたこのビールは熱による成分変化が無い分だけ新鮮味が向上したが、『生きている』わけではなかったのだ。元来フィルターをかけて、加熱処理をしていたのが、フィルター技術の向上により、酵母菌を完全に除去できるようになったため、加熱の必要が無くなったのである。加熱時代に『生』といっていた『酵母菌が生きている』タイプとは全く違っており、かつての酵母菌が生きている『生ビール』は呼び名を無くしてしまった。大手メーカー系の『市販』の生ビールはビン詰も缶詰も樽詰すべて同じ処理をしたフィルタービールが詰められており生きてはいないのだ。死んでいるのである。市販のビールは出荷した時すでに生きてはいない、死んでいる。日に日に劣化する。だから『鮮度、鮮度』という。
『市販のビール』は『死斑のビール』なのである
昭和五十年代、いったんは全くの一銘柄になってしまった『日本国民“官”ビール』を、様々な容量のビンや缶に入れ替えて、洋服を着替えさせることによって、新製品として世に出していった。マスコミはこれを『容器戦争』といった。また、高額のコストをかけて人気俳優を雇い派手なコマーシャルを流した。これはしかし、大手メーカー同士のシェア争い『戦争』に他ならなかった。
昭和六十年代、アサヒスーパードライの発売と躍進による、ビール銘柄全部の味の大淡白化が始まり、浸透した。各社がいっせいに『ドライビール』を発売した。さらに、季節限定ビールや、地域限定ビールなどという、『名前とラベル』だけ違う、同一種のビールが次々と同じ価格で発売された。同じ原料で、同じつくりかたで同じ量なので当たり前なのかもしれないが。
つまりおなじ価格の、同じビールが、様々な名前でいっせいに発売されたのに日本人は(あるいは、マスコミは)『あまりに多くのビールが出たので、分からなくなった』と言った。分かるはずも無い。同じビールなのだから。世界には二万もの銘柄があると言うのに。
また、ビールの芳醇な味に貢献している原料麦芽の使用比率を二五%にまで下げた『四分の一ビール(四増ビール)』が発売された。『スーパーホップス』は、ほとんどホップの味がしないという意味か。淡麗というのが味が薄いという意味ならまさに淡麗な『淡麗生』。ドライというのが味が無いという意味ならまさにドライの『マグナムドライ』などがそうである。
一九八一年(昭和五六年)『ドブロクをつくろう』前田俊彦編、出版。
一九八二年(昭和五七年)エヌビージャパンが日本初の自ビール用品の販売を始める。
一九九二年(平成 四年)『手造りビール事始め』山中貞博社長著、出版。手造りビール師グループ醸自倶楽部、発足
一九九三年(平成 五年)九月 細川政権の地ビール解禁方針決まる 十二月 『酒つくり自由化宣言』穂積忠彦著、出版
一九九四年(平成 六年)地ビール製造数量六〇キロリットルと決まる
一九九五年(平成 七年)日本に十七社の地ビール会社出現
さて、こんな中でついに、日本に地ビールと呼ばれるビールが生まれたのである。しかし、それは、お上からの規制緩和に過ぎなかった。先に述べたが、英国や米国の『地ビール屋』とは自家醸造家が、自分の造ったビールが美味いから、たくさん造って人様に売るようになった人達そして組織だった。酒文化・食文化に根ざした、まさに下からの規制緩和だった。それに対し日本は、ここでも“官ビール”の発想だった。細川政権による地ビール解禁は「町おこし・村おこし」の目玉となり、行政・企業主導の地ビール会社が次々各地に生まれたが、景気が低迷する今、バタバタとつぶれていっている。
と、日本の地ビールの現状にざっと触れたところで紙数が尽きた。次回は日本の地ビール界について、細かくみていくことにします。
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◆醸自特製「おり“自”なるBEER」が飲める店
☆「ばんぶるびい」阪急南方駅の北側ホーム沿い1分 06-6308-1777
☆「そば処 更科」大阪地下鉄天神橋筋六丁目駅11番から出口1分 さくら銀行、西へ50メートル向かい 06-6373-1721
☆「四季一善」近鉄河内松原駅北西へ1分 0723-30-6880
☆「四季一善」近鉄八尾駅南出口3分 0729-94-8750
☆「前衛」JR新大阪駅南へ5分、地下鉄西中島南方駅・阪急南方駅北へ5分 06-6886-6926
写真説明
「エイル」の本場・英国ウエールズの気品漂うビアホールにて。右の女性は店員です
ずらり並んだ「地ビール」にご満悦のオジサン(米国・西海岸)
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