「顔面トラウマ」第一回 石井政之著

顔にアザなどの「しるし」がある人生…
「当事者」による「当事者」インタビュー

我が子が人の痛みのわかる子に育ってくれた…
うれしくて涙がとまりませんでした―マリアさん

 これから始まる「顔面トラウマ」は、フリーライターで、自らも顔の右半分には大きな赤いアザがある石井政之さんによる、顔にアザなどの「しるし」のある人へのインタビュー、つまり「当事者」による「当事者」の記録です。顔に「しるし」のある人たちは、体のキズとあわせてトラウマ(心の傷)を抱えて生きています。そのトラウマの克服の過程を社会に伝えていく試みです。

◆石井 政之(いしい・まさゆき)
ライター。1965年名古屋出身。医療、先端技術、人間心理を主なテーマに取材執筆。著書に『顔面漂流記 アザをもつジャーナリスト』(かもがわ出版)『病院に殺される!』(共著・宝島社)。顔面に疾患や外傷のある人でつくるセルフヘルプグループ『ユニークフェイス』の東京代表世話人としても活動。『ユニークフェイス』東京の連絡先は〒125 東京都葛飾新宿郵便局留め [Email] masaishii@msn.com

◆ 連載をはじめるにあたって

 私の顔の右半分には大きな赤いアザがある。障害者のように機能面での障害はない。しかし健常者のように普通に見られない。見かけが違うというだけで、通りすがりの人から軽蔑の視線を受けるのだ。障害者でもない健常者でもない中途半端な存在、それが顔に「しるし」のある人である。<br>  障害者、在日、部落、女性という「四大差別」については書き尽くされたようにルポがあふれている。しかし、顔に「しるし」のある人間のルポはなかった。そこで、私自身の半生とあわせて、同じ境遇にある人を十数人取材し、『顔面漂流記』(かもがわ出版)として九九年春に上梓した。出版後、顔にアザなどの「しるし」のある人からの連絡が相次いでいる。<br>  顔に「しるし」のある人たちは、体のキズとあわせてトラウマ(心の傷)を抱えて生きている。しかし、そのトラウマとの付き合いかたはさまざまだ。楽観的に乗り越えられる人から絶望の淵に沈んでいる人まで、多種多様な心模様がある。この連載はその肉声をできるだけ忠実に再現して、そのトラウマの克服の過程を社会に伝えていく試みだ。 一〇〇人の当事者の取材をして、一冊の本としてまとめるまで、聞き書きを続けていくつもりだ。

●マリア(仮名)千葉県在住1963年生まれ35歳、主婦

◆ 痩身の女性である。赤アザをメイクアップできれいに隠して待ち合わせ場所にあらわれた。微笑みの美しい、落ち着いた感じの女性である。

4度の手術で腫れをとった―治療歴

 ―顔の状態を治療した経験からお話いただけますか?
 マリア 生まれたときから右頬に海綿状血管腫(解説1)があります。実家は、東京の下町で小さな会社を経営している恵まれた家庭でした。両親、とくに父は、私が女の子だということもあって、なんとかして治してやりたいという気持ちは人一倍だったことと思います。
 二歳くらいのときに頬が腫れて色がでてきたんです。父親は普通の感じにするために、私が小学校に入る前からいろいろな病院に連れていってくれたことは覚えています。はじめに東京大学付属病院で診ていただきました。火傷の後遺症の人がいる病棟に一緒にはいったことを覚えています。小学四年生ではじめて東大病院の形成外科で手術をしました。入院すること自体は遠足に行くような感じで、楽しんでいました。手術だからと暗い気持ちになった記憶はありません。
 中学一年のとき二回目の手術を受けました。その時は、血管腫についてお医者さんから説明がなかったです。まあ手術すればきれいになるのかな、と漠然としたイメージしかなかったです。まだ中学生ですから、親に説明があったかもしれませんけれど。あまり、成功したとは思えない結果でした。
 その後、担当のお医者さんが、筑波大学付属病院へ移ったので、三回目はそちらで手術をしました。十八歳の時でした。美容を気にして真剣に治したいと思ったんです。その時は期待半分、絶望半分でした。半分くらいの腫れが取れました。三回目の手術のあと、その先生は、もっときれいにしてほしい、という私たちの希望には応じられないという態度を示し、「そのくらいでいいでしょう」と言われたのです。確かにお忙しい先生にとっては、他のもっと重症な患者さんを診ないといけないのでしょうが、本人を前にして「そのくらい」という言い方はないと思いました。その一言で病院に行かなくなりました。  二十三歳の時、兵庫医大附属病院で紹介があって四回目の手術を受けました。結婚をするニ、三年前のことです。たぶん両親が、自分のてもとにいる間にできるだけのことをしてやりたいという考えからだと思いました。その手術では、目に見えない精神的な成果があったように思いました。両親が自分のために最善の努力をしようとしてくれたことが、私にとって最高の治療だったと思っています。顔のアザは生命に直接関係がない限り、どれだけきれいに治ったということより、心がどれだけ癒されていったかが大切だと思います。
 もし、十八歳、二十三歳の時に手術を受けていなかったら、いまの二倍くらい頬が腫れていると思います。腫れはとれたけれど、キズとアザは残りました。

「飴を食べてる」といわれた子ども時代

 ―はじめてアザを意識したときはいつですか?
 マリア 小さいときの写真をみると、自分でこっちを向く(右頬を隠すように左頬を正面に向ける)わかりますか? 小さいときの写真はいつも下や横を向いていて、無意識のうちに写真の目線を気にしていたのかなとわかるんです。
 ―子どものとき、周りの子から何か言われませんでしたか?
 マリア 一番多かったのは、学校で「飴を食べてる」と言われたことです。色よりも膨らみのほうが子どもは気になるみたいでした。それから「口の中に何か隠しているの?」ともよくいわれました。
 ―いじめはありましたか?
 マリア ありました。でも、私自身が意識しなかったことと、気が強かったので、お友達のほうが受け入れてくれたという感じです。私は逃げないで立ち向かう精神でいました。きっと私が逃げていたら、みんなはもっといじめたかもしれません。
 ―どういうふうに立ち向かったんですか?
 マリア 自分から学級委員になったりして、表にでることを率先していました。このアザは一生隠せないと思って自分からいろいろなことをやる子どもでした。
 ―いつぐらいから一生隠せないと自覚したんでしょうか?
 マリア 小学校の五、六年生くらいからです。こんな顔をしているわりには、すごく目立ちたがりなんです。お友達と一緒にクラスの前でピンクレデイを踊ったりました。いじめは高学年からはなくなりましたね。
 ―いつからメイクをはじめたんですか?
 マリア 高校を卒業してからです。それまではずっとノーメイクでした。いま写真を見てウワーッ、よくこの顔で中学高校に通っていたなと思います。自分でも気持ち悪い感じです。高校は女子校だったので、それもたいへん良かったと思います。もし、アザのある女の子が進路に迷ったら女子校を勧めます。高校のときは男性を意識しないでのびのびと生活できました。
 ―つらいことはあまり覚えていないようですね
 マリア 私は忘れるほうなんです。その時はつらいんです。たぶん死のうと思うぐらいの気持ちなんでしょうけど、前向きな性格なので、これがだめなら何か違うことをしようというタイプです。
 きれいにならなかったんだから、もっと自分の気持ちを楽しいほうに向けようと。私の性格だと思います。
 デザインの専門学校に通っていたとき二、三年ロックバンドをしてました。もっとギターが上手くなりたいとか、金髪にしたりして、顔のことを忘れたいと思っていたのかもしれないですけど。
 私が落ち込んでいても、一緒に音楽をやってくれる友達がいたので、救われたというのもあります。入院しているときはお見舞いに来てくれました。入院しているときは、顔がいちばんすごく腫れているから来てもらいたくない時なんです。でも、そういう時にも普通に来てくれて、「じゃ、今度はこの音楽をやろう」と言ってくれた。私を受け入れてくれるわけだから、すごく励みになりますよね。
 いままでずっとそうでした。ガクッときても次はこれをやろう。今度はこれをしよう、あれをやろうというのがすぐに見えました。ガクッだけで終わらなかったんです。

接客業には抵抗があります―職業観

 ―就職はどうでした?
 マリア デザインの専門学校に行ってましたけど遊んでいただけでした。「とらばーゆ」をみて、会計事務所で事務をしてました。接客業ではなくて事務を選びましたね。接客業にはどこか抵抗があって…私に抵抗はなくても、接客する相手が抵抗するんじゃないかって。でも、専門学校のとき、ハンバーガーショップでアルバイトをしたこともあるんです。当時、よく私を雇ってくれたと思います。
 ―その時はスッピンだったんですか?
 マリア いえ、少しお化粧をしてました。
 ―緊張はしましたか?
 マリア ないんです。自分の前にお客さんが来たときにモジモジすると、お客さんもモジモジします。私はそれを無意識に学習していました。こっちが明るくハキハキすると、お客さんもいつのまにか流れていくんです。自分が正面からお客さんをみると、むこうも「そうか」という感じでした。

会って二回目でプロポーズされました―結婚

 ―結婚の経緯について教えてください。
 マリア 結婚前までいろんな人とお付き合いをしてきましたので、恋愛にはぜんぜん抵抗がなかったです。ロックバンドでヘビーメタルをしてましたから、男の子と遊ぶことも多かったです。私は好きだなと思うと、「好きだ」と言えました。でも結婚は恋愛とちがう、と漠然と意識していました。まずこのアザを受け入れる人じゃないと結婚はできないと思っていました。
 いまの主人との付き合いは文通からでした。二回目の文通で相手が会いに来ちゃったんです。住所をたどって。その時は、茶髪もロックも全部捨てて「結婚するぞ」という時期になっていました。
 主人は最初にあった時から結婚するつもりだったらしいんです。だから私のほうが相手を不気味に思いました(笑)。二、三回目のデートで、主人の家に連れて行かれて、両親に紹介されてがんがんプレゼント作戦がはじまって、どうしようかな、と思いました。その時に、二十三歳の手術があったんです。むこうも「え、手術なの? どういう手術なの?」とすごく心配するんです。「命には関係がない、ちょっとした手術だから」と。手術を受ける病院が兵庫医大だったので、東京からすごく遠い。別れるきっかけになるな、と思ったんです。一ヶ月も連絡とれないなら別れるんだろうな。でも車で東京から「一晩かけてきた」とお見舞いに来るんです。やめて欲しいのに来る(笑)。手術すると顔が腫れます。「こんな顔だから会いに来なくてもいい」と言ったら、むこうは「親が仏壇で拝んで大変なんだ」と言うんです。じゃあ、私を受け入れたんだ、もう結婚しなきゃいけないという雰囲気になりました。
 ―「結婚したい」というプロポーズは?
 マリア つきあって二回目でした。
 ―気の早い人ですね(笑)。
 マリア エエーッ! みたいな(笑)。

「お母さん、ここ痛くないの?」―子育て

 ―お子さんが一人いますね。
 マリア 結婚して子どもができたとき、これは遺伝するのかな、とすごく真剣に意識しました。
 ―医師に確認とりましたか?
 マリア 確認しませんでした。生まれてくるまでどきどきの一年でした。医学書をみると奇形は遺伝しないと書いてありましたけど。生まれてきたとき、体のすみからすみまで見て、何もなくて、ああよかったと安心しました。私にとっては、自分の恋愛や結婚よりも、出産育児のほうが心配なことが多いです。
 幸い私は家族や友達に恵まれて、明るく積極的に育ちました。今は、自分が親の立場になって、少しですが親の気持ちがわかるようになり、両親に感謝をしています。  人並みに結婚もして、子どもにも恵まれました。顔にアザがあることで子育てに困ることはありませんでした。でも、子どもが学校に行くようになり、母親の顔にアザがあることが理由でいじめられるのではないか…という不安はありました。自分が「変な顔だ」と言われるのは我慢できます。でも子どもが「お前のお母さんは変な顔」と言われるのは想像するだけでものすごく辛いです。これはいいようのない気持ちです。でも、そういうことも乗り越えていかなくれはいけない事実です。子どもは、いままでで一度だけ、アザのことを聞いてきました。ひとこと「お母さん、ここ痛くないの?」。心配そうに聞いてきました。ありのままのことを話しました。あとで涙が出てきました。辛くてではなく、我が子が人の痛みや苦しみが少しでもわかる子に育ってくれていたことにうれしくて涙がとまりませんでした。顔にアザがあることで、他の人とは違う思いをしたり、経験をします。それはいいことばかりではありませんが、毎日、この顔でPTAの役員をやったり、地域のボランテイアをやったり、生き生きと生活をしています。そういう姿をきっと子どもは見ていると思います。(1999年8月に都内で取材)

◆ 海綿状血管腫 おもに皮膚や皮膚の下部、ときには筋肉のなかに発生する血管の異常集合状態を言う。触るとふわふわするので海綿状という。

◆本誌発行人・大西が石井さんのことを書いた記事(「月刊・お好み書き」99年6月号)の在庫あります。ご希望の方は大西まで。


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