養護学校は、いわゆる「障害児」だけが就学しているわけではない。長期間、療養生活を送っている病弱児のための養護学校もあるということをご存じだろうか? 病気の子どもの切なる願い。それは「学校に行くこと」。大阪府立泉北養護学校はそんな多くの病弱児の願いを叶えてきたが、この春、その歴史を終えさせられようとしている。「廃校」を覆えすのは難しい情勢であるが、そうなれば、この種の府立学校が姿を消すことになる。反対運動が展開されるなか、大阪府教育委員会は「転入学希望者が少ない」と、その理由を説明するが、転入学者減少の背景にあるのは、作為的な就学指導であった。
たったひとりの発表会 体育館の舞台では、ひとりの少年が国語の授業で暗記した百人一首を読み上げていた。自作の句も交え、茶目っ気たっぷりに演出しながら。1999年11月20日。大阪府立泉北養護学校中学部の学習生活発表会が行われた。ここの在校生は3年生の彼ひとりなので、文字通りのひとり舞台である。 「どうだった?」終了後、彼に声をかけると「まあまあ」とそっけない返事。そのわりには得意げな表情だ。親や教職員やまわりの大人たちに見守られていることを知っている子どもはこんな顔をする。こうやって人は大切なことを学んでいく。学校という場で。 しかし、この学び舎は「学校指定の停止」が決定され、転入学が認められなくなった。つまり、生徒が入ってこないのだ。それで現在たったひとりの生徒である彼が卒業すると、廃校になってしまうのである。 学び舎が喪われてしまう 何年も前から噂では囁かれたことが、とうとう現実になった。97年2月21日、大阪府教育委員会会議に泉北養護学校(義務教育期間の小・中学部)の「学校指定の停止」が提案される…これが決定されると、事実上の廃校である。 保護者がこのことを知ったのは前日の20日。教職員組合を通じてだった。教職員組合からの連絡がなかったら、保護者には一切知らされず、秘密裏に決定されるところだったが、かろうじて教育委員あてに6通のレタックスを送り、PTA会長が会議を傍聴することができた。しかし、このレタックスをうけた教育委員の質問により、1時間近く討議されたのち、泉北養護学校の学校指定の停止は決定されてしまった。府教育委員会は、廃校後、そこに知的障害養護学校である和泉養護学校高等部を移すことを計画していた。 泉北養護学校の廃校は、以前からそれとはわからぬような形で進められていたという。府教育委員会は市町村教育委員会に対して地域校への就学指導を強化し、泉北養護学校への転入学を阻止させ、作為的に転入学希望者を減らしていったのだ。 ネフローゼ(腎臓病の一種 )の娘さんが泉北養護学校中学部で過ごした泉北養護学校病弱教育PTA会長、山下匠子さんの場合、地域の中学校への通学は困難と判断し、泉北養護学校中学部への進学を希望した。娘さん自身も見学し、気に入っていた。 しかし、府教育委員会の返事は「外からの生徒はとらない」というものだった。当初、山下さんの事情に理解を示していた和泉市教育委員会も、地域校への進学を通告してきた府教育委員会の決定に従わざるをえないという。「とりあえず地域校に通わせて、登校拒否にでもなったら、また言ってください」と。それで納得する親がどこにいよう。山下さんは和泉市会議員・府会議員、教職員組合と共に粘り強く交渉を続けるが、埒が明かない。そして中学校の入学式も迫った96年3月27日、議員も交えて「明日、府庁へ直訴しに行こう。それでもだめなら法的手段に訴えよう」と話し合っていたその夜、和泉市教育委員会から泉北養護学校への就学を認める電話が入った。 「就学指導」の実態とは 「府教育委員会の就学指導は異常でした」と山下さんは語る。「娘の主治医に会いに来て、地域校に通うのが望ましいという意見を引き出そうとしました。主治医は『長い目で見ましょう』としかお答えにならなかったので、『いつになったら地域校に戻せるのか』と尋ねたり、『主治医は変えられないのですか』とも言ったそうです」。また、府教育委員会は市教育委員会を通して、週6時間の訪問教育を受けるよう提示してきた。それに対し山下さんは「たしかにそれも教育の保障には違いありませんが、地域の学校には行けなくても養護学校なら行ける子どもに『訪問教育をするから家にいなさい、それが嫌なら無理してでも地域校へ行けばいい』と言うのは、行政による教育の放棄だと思います」と憤る。 他の転入学希望者も「同じ病気でも地域校に行っているお子さんもいますよ。それができないのは家庭に問題があるせいでしょう」「本当に喘息ですか?ただの登校拒否は心の問題で病弱とはいいませんよ」「養護学校からでは高校進学は無理です」などと言って、入学を諦めるよう説得されたという。 学校指定の停止の根拠として府教育委員会が言う「入学希望者がいない」とは、このような就学指導が功を奏したものなのだ。泉北養護学校の保護者・教職員ら関係者で作る「泉北養護学校と病気療養児を守る会」には、すがるような入学希望の相談が寄せられている。「守る会」では請願活動など各方面に働きかけ、泉北養護学校の病弱課程を復活させるよう、太田房江新知事のもとでの2月からの議会に望みを託す。 病弱児のための養護学校とは? 養護学校といえば、知的障害児や肢体不自由児が通う学校をイメージするが、長期の医療・生活規制を要する病弱児を対象とした病弱養護学校がある。大阪府には刀根山養護学校(豊中市)、泉北養護学校(堺市)、羽曳野養護学校、大阪市立貝塚養護学校の4校があり、そのうち、大阪府立で寄宿舎を備えており、入院していない病弱児が就学できるのは泉北養護学校だけだ。 病気を抱えた子どもは、退院後もすぐに地域の学校に復学できないことがある。その理由は体調不良や抵抗力低下による感染症の心配のほか、運動会や修学旅行に参加できない、給食や体育の制限、学習の遅れに配慮してもらえない、車椅子用の設備がない、など地域校の受け入れ体制への不安、種々の学校不適応状態である。そういった場合、在宅で過ごさざるをえなくなる。そんな病気療養児の受け皿として、泉北養護学校の存在は欠かせない。 ここで心臓疾患や腎疾患、気管支喘息、てんかん、膠原病、血液疾患などさまざまな病種の慢性疾患児のほか、近年では心身症や不登校といった、心の病を合わせ持つ子どもたちも多く学んだ。病気のために負った心の傷もケアされながら、可能な限り、その子に合ったやり方で、体育も修学旅行も参加する。冷暖房が完備(病状にあわせ冷房は一部)した教室での学習は、分からなくなったところから始め、自学自習の力をつけるのが目標だ。学習指導について小田多久代教諭は「授業のルールや姿勢などをスタート時にきちんと子どもたちと決めていきます。話し合い、授業計画や方法を提案し、子どもが明日何をするのかを分かるようにします。そうして学習の見通しが立てられるようになることを目指します」と話す。 仲間とともに、癒される…寄宿舎にて 「同じ釜の飯を食う」体験は強烈な印象となって子どもたちに残る。 配慮された食事、規則正しい生活、当番活動、季節の行事、きめ細かい健康管理。寄宿舎は生活そのもののなかで、生きていく力を育む教育の場だ。いつも家にいたために乱れがちだった生活リズムを整えたり、洗濯・掃除などを自分でやり、生活習慣を身につけていく。また、母親の車が移動の手段だった子どもは電車に乗ったことがなかったり、買い物をしたことがなかったりするが、徐々にそういう経験も積んでいく。これには寄宿舎の果たす役割が大きく、医師や看護婦は配置されていないが、24時間体制で寮母・舎監が指導にあたっている。 97年に中学部を卒業した生徒はこんな文章を残している。 「友達といろいろなハプニングがあり、そのたびに話し合いをして解決することを覚えました。自分の思いを口に出せるようになり、すごかった“やつあたり”が減りました」「寮生活では朝起きができるようになりました。本当はしんどいですが、やればできると分かってきたので、気力で起きています。人間関係で学んだこともたくさんあります」 子どもは遊びのなかで仲間作りや駆け引きを覚え、対人関係を学んでいくが、遊びが制限されればそれを学ぶ機会も減り、友達づきあいが苦手など、社会性の発達が阻害される。 「トラブルはどこでも起こること。それをどう解決するか。まず、話し合いをする。そして正面衝突したら潰されることもあるので、そんなときの逃げ方など対処の仕方も学びます」(小田教諭)。小田教諭が病弱児教育でも泉北養護学校にこだわるのは、寄宿舎の存在だという。「病弱児も特別扱いせずに地域の中で他の子どもたちと同じように育てるべきだということも言われますが、寄宿舎は子どもを隔離しているのでありません。社会復帰のためのリハビリの場、次のステップへのトレーニングの場なのです」。 腎炎でかつて厳しい安静を強いられていた女性は「病気で安静にしなければならないのは自分だけではないと知ると孤独感が薄らいでいきました」と語る。ネフローゼを患っていた男性も「病気の悩みを言い合えて、閉ざされた心を解き放つことができるのは共同生活だからこそ」と当時のことを振り返る。 また、先出の山下匠子さんは、理解し合える仲間がいて、自分一人だけが苦しいのではないという意識が、病気とともに生きていかなければならない子どもにとって、心の拠り所になると強調する。「『みんなできるのに自分だけできない。私はみんなと違う』そんな思いにふさがれていた娘の心に、親の私もここに来るまで気づきませんでした」。 寄せては返す波のような 〈つよがりをいつも言ってる にきび顔 こころの奥を誰が知るらむ〉(読み人:泉北養護学校と病気療養児を守る会) 23年間、泉北養護学校で病弱児教育に携わってきた小田多久代教諭はいろんな子どもと出会った。中学2年のときに泉北にきた膠原病の少女は、初めひとこともしゃべらなかった。すべてに投げやりな態度で何にも興味を示さない。生きる意欲さえ欠いているように見えた。病状が不安定で学校にも来れない。小田教諭は家庭訪問する際、クラスの子どもの手紙を持って行った。 少しずつ彼女もそれに返事を書いたりするようになった。ある日の筆談。 「何かやりたいことはないか」 「編み物」。 編み機を用意して待ったが、彼女は来なかった。「あるときはいけそうだがまたあるときは引いて行く。まるで、寄せては返す波のようなのです」と小田教諭は子どもたちの感情の機微を表現する。「とにかく何かさせないと、学校に来させないとと思い、関わろうとしてもいつも失格やと言われる。教師は教科を教えて点数をつけてたらいいのではないということを突き付けられるのです」。 「いつかお礼まいりしたる!」と言って卒業していった彼女との交流はその後も続き、28歳になった彼女が、あるとき、自分の母親を恨んでいたと告白したという。高熱で死にそうにしんどかったとき、枕元でおすしを食べていた母を恨んでいた、と。親をも恨む…これほど深い人間不信が植え付けられてしまうものなのか。 「人との関係から生まれる連帯は孤独や不安を癒します。まず、信頼できる大人から。それから大人を介して子どもどおしつながるよう援助していきます」。小田教諭の言葉には病弱児教育の専門性が凝縮されているように思えた。 *膠原病…免疫反応が誤って自己の体の成分に対して起こるため引き起こされる、慢性の炎症性疾患。全身性エリテマトーデス、強皮症、多発性筋炎・皮膚筋炎などの病気が含まれる。確たる原因は不明で、ゆえに今のところ根治的治療法がない難病。 いのちの讃歌 校門を入ったところにひっそりと、たたずむ歌碑。刻まれているのは『いのちの讃歌』。開校以来「いのちをいとおしむ」教育を実践してきた泉北養護学校の校歌である。
友だちなんて いらないと 病気のため在宅で過ごした私自身の中学生時代を思い出す。唯一望んだのは、友達といることだった。ただそれだけだったのに、それも叶えられないと知ったときの私の絶望感は「病気だから仕方ない」と言って慰められるものではなかった。山下さんの娘さんは地域の中学校へ見学に行った帰り、こう言ったという。「この学校、私が来たら迷惑なんでしょ」。「療養に専念」という名の排除を彼女も直感したに違いない。かつての私のように。 大阪府は障害児の地域校就学率が高いという。それは言い換えれば「養護学校へ行く子はまともではない」という偏見の強さでもあると山下さんは指摘する。それでも泉北養護学校への転入学を希望するのは、地域の学校ではどうしようもなくなり、苦悩の末の選択という場合が殆どだ。それも、教育委員会が泉北養護学校についてPRしないため、口コミによってその存在を知らされて、である。そうやって教育が保障される病弱児は限られている。山下さんは手記の中でこのように記している。 「義務教育を受けられていない病弱児の保護者も黙っています。なぜなら、ほとんどの人は世の中に病弱児のための養護学校があることも、病気の子も教育を受ける権利があることも、御存じないからです」。(今井 育子) ★病弱養護学校数の推移★ 病弱養護学校の廃校は全国的な傾向なのだろうか。全国病弱教育研究会事務局長で埼玉県立蓮田養護学校の田中敏雄さんに伺った。 田中 病弱養護学校は1979年(昭和54年)に養護学校義務制になったときも、全都道府県に設置されたわけではありません。全国に設置されたのは84年のことで、それ以降、その数は変わっていません。たいていが1県に1〜2校しかないので、廃校にしにくいのでしょう。 病弱養護学校数(本校と分校をあわせた)の推移を見ると、85年(昭和60年)95校、89年(平成元年)97校、93年(平成5年)97校、96年(平成8年)95校、98年(平成10年)100校(本校85校)となっています(参考『療育7』12ページ日本療育学会、『全国病弱教育施設一覧』全国病弱虚弱養護学校長会、『病気の子どもと医療・教育12−13合併号』5〜7ページ全国病弱教育研究会)。
病弱養護学校の数は70年代に増加、78年以降はあまり増えていませんが、98年には他の障害との併置の学校が2校増えました。このように今後、単独の病弱養護学校ではなく、いくつかの障害を併置する方式が増えるかもしれません。 たとえば、97年、群馬県では初の高等科を持つ赤城養護学校が設立されましたが、これまであった東毛養護学校・西毛養護学校が分校になりました。さらに98年、滋賀県で守山養護学校が設立されるにあたり、大津養護学校が守山養護学校の分校に「格下げ」になりました。一方、これまで教育保障のなかった大学病院などの訪問教育、院内学級は急増しています。 泉北養護学校のように、入院していない子どものために寄宿舎のある学校は、病弱養護学校の中でも多くありません。全国の病弱養護学校の大半は国立療養所に隣接するかたちで設置されてきましたが、厚生省は74施設を統廃合移譲していく方針ですので、今後病院隣接の病弱養護学校でも、存続の問題が出てくると思われます。現在、香川県で問題になっています。 「病弱教育…東京ではどうか?」 東京都には「健康学園」と呼ばれる区立の病弱教育機関がある(23区内では18区が設置)が、大阪府同様、在籍数の減少、財政難を理由に統廃合の動きが出てきている。千代田区、渋谷区ではすでに廃止、江東区の新舞子学園(所在地/千葉県富津市)は今年度で廃園が決まっている。一方、港区では親の運動で98年12月、存続が決定された。 また、中野区の館山健康学園(所在地/千葉県館山市)も廃園の方針が打ち出されたが、これに対し、医療関係者や教育関係者らがバックアップ、市民からも存続を求める声が高まり、「館山健康学園を守る会」が結成された。 (写真説明) 病弱児・病気療養児のための養護学校、大阪府立泉北養護学校。今春、廃校に…=大阪府堺市 | |