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てなもんやバット笠〜
史上初!バッティングセンター全国制覇男・吉岡雅史

年間1500本「水戸のホームラン王」の巻

日本一の男の登場です。おそらく日本で初めて全都道府県のバッティングセンターを「制覇」した吉岡雅史さんによるバッティングセンター「オタク話」です。アホも極めれば社会学…だと思いませんか。

 
◆吉岡雅史(よしおか・まさし) 1963年(昭38)10月24日、大阪府摂津市に生まれる。 真剣にプロを志した父親の影響で、物心ついた時から野球ファン。ちなみに昭和10年生まれの父は、いまだに息子よりうまく、99年シニアソフトボールの世界大会に出場して、3試合で9打数6安打と打ちまくり、優勝の原動力になっている。その血統のせいか、大阪府立吹田東高校3年秋、ジャイアンツの入団テストに挑戦し、見事1次で不合格。ちなみにこの時初めて硬球を握った。1浪後まぐれで立命館大学へ。4年で卒業するも、1年間のプータロー生活を経て88年大阪日刊スポーツ新聞社に入社、この2月より名古屋勤務。170センチ、73キロ。右投げ右打ちだが、なぜか左の方が「断然いいスイング」とよく言われる。
 

2年2ヵ月で「快挙」達成

まだ記憶に新しい茨城県東海村の臨界事故が起こった日の夜、職場の隣りの席では、この雑誌の編集発行人でもある大西が「被曝量は広島の原爆級や言うてまっせ。怖っ、むちゃ怖なってきた」と何度も何度も口にしていた。被爆と聞いて、原爆投下の映像のおぞましい光景を思い出したのは、きっと僕だけではなかったと思う。

避難勧告が出された半径10キロの地図を見つつ、同時に、つい習性で「那珂町。ひたちなか市。2軒か。あっ、日立市の南部もかかってるからもう1軒。確実に3軒はある。この先どうなるんやろ」と、世間とはおよそ掛け離れた心配の仕方をしていた。

何が3軒あるかと言えば、東海村周辺で営業しているバッティングセンターのことだった。「不謹慎極まりない」「この非常事態に何がバッティングセンターか」と、お叱りを受けるかもしれない。しかし事実あの時、恐怖心の次に脳裏に去来したものは、バッティングセンターの存在だったのだ。

東で原子力事故があれば、危機にさらされた3軒を思い、西で大震災が発生した際にも、業界の安否を気遣う。それがまた、インターネット並みのスピードで、頭の中で瞬時にクリックされてしまうのだから、我ながら呆れた特技を持ったものである。

これまた不謹慎な例えだが、あの事故で臨界なる言葉の意味を知って、まるで自分自身のことだと妙に納得していた部分がある。「連鎖的、持続的に進む状態」。もちろん核分裂ほどの絶大なパワーはないものの、まさにバッティングセンターにおける僕そのもの。打ち始めたら、連鎖は止まらなくなる。1日に200、300球は当たり前。400スイングを超えると、翌日起きるのがちと厳しくなる。ちなみに自己最高は605スイングで、500後半に差しかかると、吐き気がした。

全国各地のバッティングセンター事情と、スイング臨界状態。この2点を結ぶものこそ、僕のライフワークである『バッティングセンター全国制覇』なのである。

96年1月から約2年2カ月を費やして、全国のバッティングセンターを一通り訪れた。おそらく、まず間違いなく人類初の快挙であろう。ただ誤解してはいけない。日本中のバッティングセンター全部に足を運んだのではなく、バッティングセンターを巡礼することで47都道府県すべてに足を踏み入れたからこそ、全国制覇とか快挙だとか、随分大層に呼んでいるのだ。

「そんなの自己満足やんか」と言う指摘も多々あった。おっしゃる通り。「なんでそんなことすんの」としょっちゅう尋ねられもした。そんなん聞かれても、単なるライフワークやし…。あくまで趣味の範疇だから、他人の賛同を得ようなどとは思わなかった。けれど、人間、何にでものめり込んでみるものである。人類初の試みだけあって、そこには知られていない事実が、数多く秘められていた。賛否はともかく、これは世間に伝える義務がある。

不況知らず「第4次ブーム」

毎日新聞が夕刊1面で「業界は今、第4次ブーム」と報じたのは、97年の秋だった。本物 のプロ野球投手の映像を取り入れた、いわゆる「バーチャルリアリティー」が導入された ころだ。この新システムは、ピッチングマシン自体に変化はなく、機械の前面に映像スク リーンや液晶パネルが設置され、あたかも実戦の雰囲気を醸し出す。ドジャース時代の野 茂が東京に出現し、雑誌やテレビがここぞと騒ぎたてた。やれリストラだ、失業率が戦後 最悪を更新だと、大不況の御時世に、バッティングセンター業界は実に活気がある。

草野球愛好家の挑戦意欲をかき立ててやまないバーチャルリアリティーは、98年の暮れか ら一層進化を遂げた。肖像権の関係上、日本のプロ球団に関しては往年の投手ばかりだっ たのが、現役の映像が解禁されたからだ。阪神では藪、川尻。巨人の桑田、槙原らが町中 に登場しては、いっちょ打ってやれと腕ぶすのも当然だろう。

そして99年夏、巨人のスーパールーキー上原のお目見えとなった。そこは旬の大物だけあ って、連日4000球以上のフル回転だとか。本誌が世に出る2000年には西武の松坂 もデビューしているはずだ。さぞや人気を博すに違いない。

僕は上原より、藪と桑田を重宝している。とにかく2人ともフォームがオーソドックスで タイミングがとりやすい。バカスカ打てるので、この1年さんざんお世話になった。その せいか、当人たちは不本意なシーズン。この因果関係は定かではない。そういえば、ひと ころ阪神・新庄の投手兼任が話題になり、実は成功のあかつきには候補に挙がっていたが、 これは幻に終わりそうだ。

世の中の情報は大部分が東京発信。ところが、である。ことバッティングセンターに関し ては大阪在住の方が、都合がいいときた。業界の知恵袋と言おうか、第一人者が大阪に存 在するからだ。大阪府北部の池田市にある〈池田バッティングセンター〉の堀川三郎社長 がその人。

山本和範と池田バッティングセンター

〈池田バッティングセンター〉と聞いてピンとくる人は、相当の野球通だろう。それもセ ・リーグファンよりパ・リーグファンではないだろうか。なにせ、99年度のシーズンを最 後に現役を引退した近鉄・山本和範外野手のサクセスストーリーの原点となった場所だか らだ。

「ドラ」や「カズ」の愛称で親しまれた山本は、福岡の戸畑商業から1976年秋のドラ フト会議5位指名で近鉄に入団した。一軍47試合に出場しただけで、6年目のオフに解雇 される。同期入団の久保康生投手の実家が福岡県内でバッティングセンターを手広く経営 していた縁から、堀川社長のもと、住み込みで働きながら練習。そして南海のテストに受 かり、ダイエー時代には2億円プレーヤーへと駆け上がった。

ここまでは結構有名なエピソードだが、バッティングセンターがからむと、この話には続 きがあった。

やがてダイエーも解雇された山本は96年、近鉄に復帰する。古巣のテスト前日〈池田バッ ティングセンター〉に立ち寄り「久々に打っていきますわ」と軽い乗りで打席に。ところ が、こともあろうに時速100キロそこそこの草野球レベルのボールで、持参したバット を折ってしまう。「軟球打って商売道具折るプロがあるかいな」とあきれる堀川社長。予 備のバットはない。山本は困り果てた。

「しゃあないなあ」と助け舟を出され、店に何本か飾ってあるプロ選手のバットの中から、 元阪神・真弓のを「これが一番いいかな」と拝借することにした。「おいおい山本君、真 弓のサイン入りバットで近鉄のテスト受けるんかい」。それで合格するのだから、大らか というか豪快というか…。「山本君らしいやろ。ほんま傑作やで」と堀川社長が懐かしむ。 もちろん、これには腹を抱えて笑わせてもらった。話の中で感心したのは、社長が一度た りとも「山本」と呼び捨てにしなかったことだ。

他人の失敗談がテーマではないので、話を元に戻そう。

涙あり笑いありの〈池田バッティングセンター〉には、もうひとつの顔があった。名刺に は「スポーツマシンの総合メーカー キンキクレスコ」と印刷してある。店舗を構えてい るだけでなく、バッティングセンターの設計施工、器具の製造販売までこなす業界最大手 のスペシャリストだったのである。だから社長を始め、ここの従業員の人達からもたらさ れる情報は僕にとってはとても貴重なのは言うまでもないし、逆に僕のような客だからこ そ、その見聞録にはみなさん興味を示してくれる。

社長とのやりとりで特に白熱した議題が、前述した毎日新聞の報道である。だいたい以下 のような会話だった。

「第4次ブームって書いとったけど、ここ十数年ずっと安定してる商売やねんで。ブーム って一過性のもんやろ。わしには意味がさっぱり分からんわ」

「画期的なバーチャル導入による技術革新をひとつの節目としたら、マスコミはそう書き ますよ」

「ほな、1次から3次って、いつやの」

「日本に初めてバッティングセンターが登場したのは昭和39年から40年にかけて、東京が 最初(ここにきて豊島区の〈大塚バッティングセンター〉説が浮上してきた)でしたよね」

「そや。そのあと全国各地で爆発的に増えて、1000軒以上作られたけど2、3年後には100軒も残ってなかった」

「仮に、創成期を第1次ブームとします。そしてオイルショックのあと再び、建設ラッシュが始まりますよね」

「それ以来、1000、いや1200から1300軒ぐらいまで回復して、今も少しずつ増えてきてるんや」

「94年のイチロー出現で、バッティングセンターがまたえらい脚光を浴びました。社長が中心となり、業界のイメージアップに対して、イチローを表彰されてますよね。あのころは偶然にも、ドーム型センターが各地で建設ラッシュでした。その時期を第3次ブームとしたら、どうでしょうか」

「うーん、それやったら確かに、今が第4次になるなあ…」

かくして、極秘裏に行われたバッティングセンター界の“巨頭トップ会談”の末、ブームの定義づけは無事決着がついた。

カズ山本に続いて、またもビッグネームが出てきた。

オリックス・イチローが少年時代、愛知県豊山町の自宅近くにある〈空港バッティング〉に毎日通った話も、また有名である。いつも使っていたという打席には、彼の背番号「51」のボードが掲示してあり、地元ではちょっとした観光名所になっている。

イチローもかすむ「水戸の御大」

ではイチローこそ、バッティングセンターが生んだ最大のスターなのか?答えは断じて「NO」である。6年連続首位打者の安打製造機すらかすんでしまう大物が、この世界には存在した。

あれは全国行脚も終盤に差しかかった97年12月5日、43番目に訪れた茨城県(またも)水戸市の〈駅南バッティングセンター〉で「アウト」の的(これは珍しい企画)に打球を当て、景品の缶コーヒーを飲んでいた時のこと。あまりの衝撃にメモすることさえ忘れて、記憶に自信はないが、確か「1559」という数字が飛び込んできた。

「年間最多本塁打」。受付カウンターの壁に書いてある。1年に1500本…。世界の王が22年間で通算868本塁打だし、マグワイアは年間70発。大木こだまじゃなくとも「そんなやつ、おらんやろ〜」と一笑に付して無理はないだろう。

そのころの僕には記録の主がだれかより、全国制覇完結こそがすべて。だから取材もせず次なるバッティングセンターへ。だから冷静に1500本塁打を検証できるようになったのは、最近のことだ。

うんちくから入ろう。バッティングセンターにおけるホームランは、実際の試合とは全く性質が異なる。奥のネットにある直径70センチから1メートルぐらいの的に打球を直撃させなければならない。的までの距離や設置ポイントも店によって異なる。〈池田〉の堀川社長によると、このサービスが最初にお目見えしたのは第2次ブームのさなか。「確か昭和50年ごろやった。どこが最初か、だれが考えたかは分からんのや」。

打ちまくった稼ぎは年間150万円?

ホームランには例外なく景品がもらえて、標準は2、3ゲーム分のコイン。本数を重ねるごとにグローブやステレオなど盛りだくさん。極め付けは海外旅行なんて店もある。〈駅南〉の場合、2ゲームのコインと現金1000円。ということは、あのキングは年間150万円も稼いだことになる。

どんな状況で、どんな人が達成したのか、経験則から推察してみた。

あくまで機械の投げる球だから一定のテンポで、コントロールも限定されてくる。同じ球を同じポイントで捕らえ、同じ場所へ打ち返すという独特の技術が必要になるため、ずば抜けた実力は必要ないまでも、ある程度の才能がないとだめ。

参考までに僕は98年に1万7739スイングして25本塁打を放った。およそ700分の1である。ちなみに某テレビ番組が「確率は3500分の1」とどこからか数字を弾き出していたから、捨てたものではないだろう。また〈駅南〉は左右150センチの巨大的だったから、慣れればもっと精度は高くなるはず。

年間1500本打とうと思えば1日平均4本打たなければならない。体力的に1日200スイングなら僕は、毎日でも通う自信はあるが、人それぞれなので、仮に1日100スイングと規定すると、ホームラン確率は25分の1。

これはどう考えても毎日のように通わないと達成不可能だ。となると、学生か自営業主か…。「学生がそんなにお金を持っていないだろう」という想像は、バッティングセンターの奥深さを理解していない者(あっ、僕以外全員や)のすることである。

敵は最低でも50分の1の確率(毎日200スイングと仮定して)でホームランを打つ猛者である。〈駅南〉の料金体系は21球300円だから、ほぼ2ゲームに1本ということになる。つまり600円使うごとに賞金1000円とコイン2枚をゲットしている計算だ。2度目の来場からは財布不要。コツさえつかめば(そうなるまでにいくら投資するか見当もつかないけど)、悠々自適のホームラン生活が待っているのだ。

検証するほどに、すごさが浮き彫りになっていく。これはぜひ、恐怖の本塁打王を探し出したいところ。遠路はるばる水戸まで行くかを検討していたら、幸運が舞い込んだ。

東京にある白夜書房という出版社が、以前から僕の奇行に注目していてくれて、98年秋に発行されたムック「野球小僧No.1」で全国制覇が紹介された。ちなみに99年夏に出た「同No.2」には、本場アメリカ挑戦準備編が掲載されている。サブタイトルは「あの男が帰ってきた!」だった。まだ2号やっちゅうに。

さらに話を逸脱させると、白夜書房のM編集長がこれまた並外れた野球狂で、2人の間で全国制覇を本にしようということになった。どんどん話はそれていくが、白夜書房では単行本の実績がないこともあり、企画会議において2対9で出版は否決されてしまった。それにしても、賛成2票のうちひとりが社長というから、なんて民主的な会社なんだろう。その後、M編集長の奔走は尽きることなく、もっか他社との交渉に持ちこんだ。当初は世間に認知してもらえない苛立ちもあった。いかんせんテーマが異端なだけに、これも先駆者の宿命と、焦らずじっくりいくことにしている。

中畑清と対決企画

とにかく「野球小僧」の反響たるやすさまじかった。直後にテレビ局で2社、都合3番組から「まだ企画段階ですが」と打診の電話があったほどだ。フジテレビが早朝の看板番組「めざましテレビ」と、ビートたけし司会「奇跡体験!アンビリーバボー」(ガーナ人の野球をよく取り上げていた)。極め付けは日本テレビ「スポーツ偉い人グランプリ」で「中畑清とバッティングセンターで勝負してほしいのですが」という内容だった。元巨人の4番とでは、言うまでもなく実力は雲泥の差でも、ことバッティングセンターにかけてはこちらに一日の長がある。「悪くて5分5分」と踏んでいた。

あいにく3つとも、見事なまでに幻に終わった。特に「めざましテレビ」は取材の日取りまで決まってからのドタキャン。勝手な想像だが、僕の実力がどの程度か全く分からない状態では、テレビ局にとってはリスクが大きすぎて、二の足を踏むのがむしろ当然だ。でも白夜書房のケースといい、若手テレビマンたちの興奮しきった口調は、少数ながらも理解者が得られたと思うと、勇気百倍である。

で、何の話でしたっけ…。そうそう、水戸のホームラン王を探せ、でしたね。

「めざましテレビ」が、ユニークなバッティングセンターをいくつか教えてくれというので〈駅南〉のことは、当然真っ先に伝えた。キャンセルの電話の際「水戸なんですが…」と申し訳なさそうに言うから「バッティングセンター普及のためですから遠慮なく取材して、堂々と放映して下さい」と答えるしかない。

「怪物」は66歳のジイさんだった

オンエアを見てぶったまげた。怪物は、何と66歳のきゃしゃな老人だったからだ。毎日通える人、の推測は当たったものの、なんとも予想外の展開である。この老人を見た目で(だれも見てないか)なめてはいけない。いわゆる軽打で飛距離こそ出そうにないが、打球は的周辺に集中。あれなら50球、100球と打てば、量産もうなずける。局のリクエストで160キロのに挑戦させられても、豪速球をバットに当てていた。まるで拳法や武道の達人をほうふつとさせる。もしも試合で対戦するとしたら、長打の心配こそなくとも、確実にセンター前に弾き返されるだろう。

気になったのは、番組では記録が996本になってたこと。ひょっとして本当のキングがつかまらず、2位にお出まし願ったのだろうか。それにしたって、1位が1500本でその次が996本なんて、マグワイアVSソーサじゃあるまいし、全体のレベルが高すぎてむしろ不自然だ。となると、賞金150万円がばれれば確定申告せねばならず、税金対策での改ざんたったのか。真相はともかく、おそるべきは「水戸のホームラン王」を分かってもらえよう。

47都道府県でアーチを

カズ山本、イチロー、それに水戸の御大たちのような輝かしい足跡はとても残せそうにない。それでも僕にだって目指すものはある。

さんざん水戸のじいさんの話をしたあとでは、スケールが小さくてかすんでしまうが、47都道府県すべてでホームランを狙っている。現在のところ、東京、神奈川、富山、滋賀、京都、大阪、兵庫、奈良、熊本、鹿児島のたった10都府県と、まだまだ道半ば。もっとも、これでも恐らく日本記録でしょうけど…。

「有給休暇を取ってまで出掛けない」「1県当たり最低100スイング」「極力貧乏旅行に徹する」を3カ条とした全国制覇は、ひとつのイベントにすぎなかった。この原稿を書いている99年11月の時点で、訪問軒数はやっとこさ184軒だ。まだ推定1000軒以上のバッティングセンターが、僕の来場を首を長くして待ち受けているはず。

どうせ各地を回るなら、可能な限りテーマを絞ろうと考えている。一例を挙げると、東北の三陸海岸沿岸には宮城県気仙沼市から岩手県久慈市まで、奇妙なまでにほぼ等間隔で5軒が点在する。交通の便も悪い上に、体を酷使しに行くため、これは丸2日を要する死のロードになること必至。すでに達成したものでは、東京の山手線の内側(5軒プラス跡地1軒)が、踏破ずみだ。

島から島へと打って旅するのも、おつなもの。宮古島はすでに行ったが、奄美大島、隠岐、淡路島にもバッティングセンターは存在する。マイナーな島では広島湾に浮かぶ江田島と東能美島にも1軒ずつある。長崎の福江島にもかつてはあったようなので、跡地を尋ねるのも歴史情緒が味わえていいかもしれない。当初、せっかく探し当てたのに、とっくにつぶれていたりすると、ガッカリしたものだが、それも旧跡だと感じるようになってからは、さら地を見てもちっとも苦にならなくなった。

山から山のルートも興味をそそられる。近々挑戦しようと思っているのは、岐阜県内で、高山から美濃白鳥へとバスを乗り継ぐ高所のはしご。これは移動にべらぼうな時間がかかるだけでなく、これまでに培った打撃技術のほどが試されるようでワクワクしている。

なぜ技術が試されるかって? それは高山だけに、当然“秘打”がついてまわる…。おあとがよろしいようで。

(以下、写真説明)
98年2月20日、全国制覇達成の舞台となった千葉県佐倉市の〈臼井バッティングスタジアム〉にて。長嶋さんの生家から徒歩10分ほどの場所にある。ちなみに2月20日は長嶋茂雄生誕の日です

イチローを育てた愛知県西春日井郡豊山町の〈空港バッティング〉。奥行き60メートルとデカイ。名古屋駅の隣にあるバスターミナルから小牧行きに乗車、約45分で「青山」到着。下車すると目の前にある。年中無休。午前10時から午後11時まで営業。日曜日は午前9時から

イチローとくれば松井秀喜も忘れてはいけない。彼の実家に一番近い石川県小松市の〈小松バッティングセンター〉。ゴジラがまだミニラだった小学生のころ、何度か訪れている。父親の昌雄さんによると「息子が来た唯一のバッティングセンターだと思いますよ」。ちなみに店のおやじは「そんなの覚えてるわけないでしょ」だとか。かなり不便な場所にあり、JR小松駅からタクシーで2000円ほどかかる

そのゴジラと勝負ができる。バッティングじゃないけど、最近流行の「ストラックアウト」のすごく進化したやつ。巨人・松井や清原の映像に向かって投げる。まだ全国に数台しか出回っておらず、初対面は三重県四日市市の〈サンルートバッティングセンター・羽津店〉で。僕は12球中5本も被弾(これで松井はペタジーニを抜いた?)。試しに頭付近を狙うと、ちゃんと転倒した。ようでけとるわい。清原だったらやっぱり殴りかかってくるんやろうか…

イチローに松井とくれば、次は元タイガースの亀山努(左)しかおらんでしょう。なにせ今や世界一監督でっさかい。兵庫県尼崎市の〈バッティングセンター・シャローム〉では月2回、亀ちゃんが直接指導してくれる。もちろん無料です。「教えた子が試合相手の4番で、でも欠点も把握してたから簡単に抑えられましたよ。ホント、ついてましたねえ」。うーん、バッティングセンターがもたらしたリトル・リーグ世界一だったかも


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